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ソニーが「気」を測ろうとした日──エスパー研究室と、35年後に戻ってきた問い

ソニーが「気」を測ろうとした日──エスパー研究室と、35年後に戻ってきた問い

1990年代の初め、ソニーの本社に「エスパー研」と呼ばれる部署がありました。正式には ESPER 研究室。扱っていたのは、気、透視、そして目を使わずに色を見分ける「非眼知覚」です。

トランジスタラジオとトリニトロン、ウォークマンを世に出してきた会社の中枢に、なぜそんな部屋があったのか。バブル期の大企業の奇行、と片づけるのは簡単です。けれども残された論文や関係者の証言をたどっていくと、そこには一本の、驚くほど無骨な問いが通っていました。人間の状態は、どこまで測れるのか。

一本の脈から始まった

話は1989年にさかのぼります。当時81歳の井深大は不整脈を抱えていて、自分の身体の状態を知る手立てを探していました。そこで声をかけたのが、技術秘書のような立場にいた高島充という技術者です。脈を測れないか、と井深は言いました。

高島は慶應義塾大学で電気工学を学び、1974年にソニーへ入った電子回路と測定の専門家でした。学生のころからアンプやスピーカーを自作しては数値を取って比べる、そういうタイプの人です。

東洋医学にもオカルトにも、関心はありません。彼は不整脈を単に電気信号の乱れとして受け取り、血流による圧力の変化を物理量として拾えばいいと考えて、数日後には簡単な脈波測定器を組み上げてきました。

その試作器を見た井深は、こう言ったと伝わります。これは個人の遊びで終わらせるな、本社の研究としてやりなさい。創業者一人の不整脈を測る装置だったものが、この一言で「人間の状態を測る技術」へと引き上げられました。1991年、脈診の研究はソニー社内の正式なテーマになります。

研究所は、韓国で脈診の第一人者として知られた白熙洙(ペク・ヒス)医師を招きました。興味深いのは、白医師自身が、自分の感覚を名人芸として神格化しなかったことです。なぜそう診るのかを言葉にし、人の指先に頼りがちな脈診を客観的に捉えるために、自ら電子脈診器の開発にも手を出していました。測れるところまで測る、意味づけは後でいい。この姿勢は、高島たち工学の人間と正面から噛み合いました。

現場の光景は独特です。技術者が橈骨動脈にセンサーを当てて波形を取る傍らで、白医師が実際に脈を診て、今日は沈んでいます、左右で流れが違います、と告げる。工学的にどれだけノイズのない綺麗なデータが取れていても、白医師の見立てと一致しなければ、疑われるのは医師の感覚ではなく測定のほうでした。

センサーの位置、圧迫の条件、解析のアルゴリズム。そちらを組み直していくのです。東洋医学を信じるか信じないかは、彼らの関心ではありませんでした。起きている現象を、測れるかどうか。それだけでした。

「気を研究するなら」

同じころ、もう一つの流れが動いていました。ディジタルオーディオの研究者だった佐古曜一郎が、井深を囲む会の席で、社内で人間の能力と意識を扱う研究をやりたいと切り出したのです。21世紀はヒューマン・サイエンスの時代になる、というのが彼の言い分でした。

普通の経営者なら一蹴する話です。井深は違いました。ただし全面肯定でもなく、気を研究するなら、という条件をつけて認可します。1991年、ESPER 研究室が生まれました。

オーディオの技術者が超常現象に向かうのは、突飛に見えて、そうでもありません。音響工学とは、可聴域という人間の知覚の限界と、その境界での信号処理を扱う学問です。限界の内側を突き詰めてきた人間が、ある日その外側にある信号を気にし始める。エンジニアの好奇心としては、ほとんど地続きなのです。

何も検出できなかった、という発見

エスパー研がまず取り組んだのは、井深が条件に挙げた「気」でした。気功師が手を広げて被験者の背中を見つめると、離れているはずの相手が引かれ、押され、前につんのめる。

この現象で、物理的なエネルギーが伝わっているのかどうか。彼らは電磁波も熱も音波も、持ち込める測定機器をひととおり持ち込んで調べました。

結果は、何もありませんでした。気功師と被験者のあいだに、エネルギーの交換も物理的な関連も見つからなかったのです。日本を代表するエレクトロニクス企業の測定技術をもってしても、エネルギーとしての気は検出できませんでした。

エスパー研が面白いのは、ここから先です。彼らは「測れないから嘘だ」とは言いませんでした。エネルギーの伝達がないにもかかわらず、離れた二人が同期して動くという事実そのものは、目の前に残っている。

ならばこれは因果を超えた共時的な現象ではないか、と彼らは考えたのです。作用と反作用の外側で、情報として意識が同期する。物理の枠を広げるほうへ舵を切ったわけです。

17色の色紙とLED

もっと具体的な成果を狙ったのが、色の非眼知覚でした。視覚を完全に遮断した状態で、色を見分けられるのか。佐古たちは能力者2名の協力を得て、17色の色紙、5色のスポンジ、そしてLEDを使った実験を組みます。

彼らはこの実験から有意なデータが得られたとして、1996年から1997年にかけて、国際生命情報科学会の学会誌に報告を重ねました。

同じ1997年には、透視と共感覚を結びつけた論文も出ています。丸めた紙に書かれた文字や図形を、被験者7名が視覚以外の感覚で読み取るという実験で、20回の試行のうち2回、最初に立ち上がった感覚が視覚ではなく聴覚と嗅覚だった、と報告されました。音を聞いて色が見える共感覚のような回路が、いわゆる第六感の正体ではないか、というわけです。

これらは社内の秘め事ではありませんでした。1996年5月、佐古は徳間書店から『ソニー「未知情報」への挑戦』を出版しています。現役の技術者が、社名を冠して超常現象の実証を世に問う。当時の経営陣が、この異端をソニーらしさの発露として、むしろ誇っていたことがうかがえます。

庇護者の死

1997年12月19日、井深大が急性心不全で亡くなりました。89歳でした。

他人のやらないことをやる。その大義名分のもとで、収益に直結しない境界領域の研究を組織の中に成立させていたのは、結局のところ井深という一人の存在でした。防波堤が消えた先で、会社は現実に向き合います。

出井伸之体制のソニーは、ハードウェアの会社からコンテンツとネットワークの会社へと急旋回し、選択と集中を掲げていました。事業化の道筋が見えない研究は、真っ先に整理の対象になります。1990年代の末、脈診の研究もエスパー研も、静かに姿を消しました。井深が自ら所長を務めた生命情報研究所も、ソニーでは医療機器の研究は行わない、という判断とともに解散しています。

皮肉なことに、その1998年、ソニーは赤外線を使ったナイトショット機能付きのビデオカメラをめぐって騒動に見舞われました。暗闇で撮るための機能が、日中に使うと薄手の衣服を透かしてしまう。

同社は日中は白飛びするよう仕様を変更し、数十万台規模の改修と交換に追われました。人間の透視能力を真剣に立証しようとしていた研究室が閉じたその年に、自社の光学技術がいとも簡単に物理的な透視をやってのけ、倫理問題を引き起こしたわけです。

問いは、四半世紀かけて戻ってくる

組織は消えましたが、問いは消えませんでした。

高島充は、脈は測れるという手応えを手放しませんでした。研究の受け皿となった会社を経てアルゴリズムを磨き続け、2013年にはリキッド・デザイン・システムズの技術顧問に就きます。

そして2024年、血圧計とスマートフォンだけで身体の状態を可視化する未病チェックの仕組み「五行ドクター」として、その成果はようやく社会に出ました。井深が高島に声をかけた1989年から数えて、35年後のことです。

生命情報研究所で催眠と瞑想を研究していた山崎靖夫も、1994年に立ち上げたラディアンスで、いまも人の内面に向き合う仕事を続けています。

いま、私たちは手首に生体センサーを巻き、心拍変動から睡眠とストレスを読み取らせています。脳と機械を直接つなぐ試みには、巨額の資金が流れ込んでいます。人間の状態をどこまで数値にできるのか、という問いは、四半世紀を回って再びテクノロジーの最前線に戻ってきました。

エスパー研の答えの多くは、空振りでした。気のエネルギーは見つからず、透視は再現されず、損益計算書は一円も潤いませんでした。

それでも、非科学的と一蹴されるものを前にして、まず測定器を作ってしまうという姿勢だけは、まぎれもなくあの会社のものでした。町工場を世界企業に押し上げたのと同じ狂気が、ただ別の方向を向いていただけです。測れるところまで測る。意味づけは後でいい。その構えは、いまのテック企業に残っているでしょうか。

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