映像革命児・中平康の生涯 —— 映画へ捧げた52年の情熱と挑戦

映像革命児・中平康の生涯 —— 映画へ捧げた52年の情熱と挑戦

映画に魅せられた少年時代から監督デビューまで

映画に魅せられた少年時代から監督デビューまで

1926年、東京府北豊島郡滝野川町(現・東京都北区)に生まれた中平康は、芸術を奨励される環境で育ちました。父は洋画家の高橋虎之助、母はバイオリニストという芸術家の家庭に育った中平は、母方の姓を継いでいます。幼少期より映画に熱中し、中学生時代にはルネ・クレール監督の作品などを何度も繰り返し観て映像表現を研究したといいます。

旧制高知高等学校を経て、東京大学文学部美学科に進学するも1948年に中退し、本格的に映画界を志します。憧れていた川島雄三監督に倣い、同年松竹大船撮影所の助監督試験を受けて1500人中8人の合格者の一人となり松竹に入社しました。同期には後に名を成す鈴木清順や松山善三らがいました。助監督時代には川島雄三や黒澤明、木下惠介ら巨匠の下で研鑽を積み、編集技術にも強い関心を示しています。黒澤・川島からも可愛がられ、予告編の演出を任されるなど才能を発揮しました。

しかし早く監督に昇進したい中平は、西河克己の誘いを受けて1954年に日活へ移籍。そして1956年、日活の名物プロデューサー水の江滝子に才能を見出され、助監督の身分ながら『狙われた男』で監督デビューを果たします。続いてわずか17日間で撮り上げた青春映画『狂った果実』(1956年)が大ヒットし、中平自身も一躍注目の新人監督となりました。

日活黄金期の多作と独自のスタイルの確立

日活黄金期の多作と独自のスタイルの確立

日活時代の中平は、幅広いジャンルの娯楽作品を矢継ぎ早に発表します。軽妙なコメディやロマンスでは『牛乳屋フランキー』(1956年)や『街燈』(1957年)、『才女気質』(1959年)などで洗練されたテンポの演出を見せ、サスペンスやミステリーでは『殺したのは誰だ』(1957年)、『紅の翼』(1958年)などで硬質なスタイルを発揮しました。青春純愛ものでは吉永小百合主演の『現代っ子』(1963年)なども手掛け、石原裕次郎主演のラブロマンス『あいつと私』(1961年)は中平にとって最大のヒット作となりました。

1964年には中平は日活後期の新境地とも言うべき作品群を立て続けに発表します。加賀まりこをヒロインに据えた異色作『月曜日のユカ』をはじめ、倒錯的な性描写を含むスリラー『猟人日記』、前衛的な心理ドラマ『砂の上の植物群』、社会派メロドラマ『おんなの渦と淵と流れ』などです。これらはいずれも映像テクニックの冴えが光る作品でしたが、当時の映画賞とは無縁でした。中平は「ヒッチコックだって賞なんかもらってやしない」と周囲に漏らしたとも伝えられています。

この頃、同期の増村保造や岡本喜八、さらには日活の同僚である今村昌平・浦山桐郎らが次々と高い評価を受けていく中で、自身が取り残されつつあることへの焦りからか酒に溺れるようになり、現場で飲酒することもあったとされます。それでも中平はコンスタントに作品を作り続け、日活を代表するヒットメーカーの一人として名を馳せました。

転機と海外での活動

転機と海外での活動

1960年代後半、映画制作方針や内容を巡って社長の堀久作と対立した中平は、1968年に日活を事実上解雇されるに至ります。当時、日本の大手映画会社間には「五社協定」と呼ばれる紳士協定が存在し、一つの会社をトラブルで退社した監督は他社での起用を控える慣行がありました。中平も東宝や東映に作品の演出を直談判しましたが契約を断られ、日本国内では新作を撮れない状況に追い込まれました。

そんな中、かねてより香港のショウ・ブラザーズから招かれていたこともあり、拠点を海外に求める決断を下します。1967年以降は香港に渡り、現地で日本時代の『野郎に国境はない』『狂った果実』『猟人日記』をセルフリメイクしたほか、渡辺祐介が脚本を提供した『飛天女郎』(1969年)なども監督しました。この間も日本と香港を行き来して映画を撮り続けましたが、日活から正式に離れたことで日本映画界との縁は徐々に薄くなっていきました。

独立と晩年、そして遺した映画的遺産

独立と晩年、そして遺した映画的遺産<

1971年、中平康は自らの独立プロダクション「中平プロ」を設立し、再起を図ります。助監督時代から信頼関係のあった脚本家・新藤兼人を迎えて製作したサスペンス大作『闇の中の魑魅魍魎』(1971年)は第24回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門に選出され、中平作品として初めて世界的映画祭に正式出品される快挙となりました。

翌1972年には新藤兼人主宰の近代映画協会の招聘で、不良少女アクション映画『混血児リカ』を監督し、1973年にはその続編も手がけています。さらに1974年には韓国の申フィルムに招かれ、自身の過去作『紅の翼』を下敷きにした青春映画を韓国側と共同で製作。1976年にはATG(日本アート・シアター・ギルド)の支援で、オールフランスロケによる意欲作『変奏曲』を発表します。しかしこの頃には慢性的な資金難や制作上のトラブルが続き、中平は心身ともに疲弊していったと伝えられています。

晩年の中平はアルコールと睡眠薬の過剰摂取もあり健康を損ない、胃癌を患っていることが判明します。しかし病状が進行する中でも創作意欲は衰えず、点滴を打ちながら担架に横たわった姿で製作現場に現れていたといいます。死の直前にはオードリー・ヘプバーン主演のサスペンス映画『暗くなるまで待って』のリメイク版テレビドラマが遺作となりました。この晩年の仕事を与えたのは、奇しくも中平を映画監督に抜擢した水の江滝子プロデューサーであり、彼女は最後まで中平の才能に期待を寄せていたのです。

1978年9月11日、胃癌のため死去。52歳の若さでした。葬儀には黒澤明や渋谷実らも参列し、業界の仲間から「彼ほど映画が好きだったやつはいない」と悼まれたと伝えられています。

中平康の人生は、まさに映画への愛と情熱に満ちたものでした。中学生時代にルネ・クレール作品を繰り返し観て映像表現を研究した少年は、やがて日本映画界に新風を吹き込む革新的な監督となります。「テクニックの人」と呼ばれるほどビジュアル重視の作風を貫き、「映画のテンポが速すぎるとは思わない。他の監督の映画が遅いのだ」と語るなど、自身の映画美学に強い自負を持っていました。

商業主義と前衛性のバランスを巧みに取った中平の作品群は、その多彩さゆえ当時十分に評価されませんでしたが、後年になってその価値が見直され、日本映画史の中で特異かつ貴重な位置を占めるようになっています。中平康という映画人の生涯は、困難や挫折を乗り越えて映画への情熱を貫き通した、まさに映画そのものに捧げられた人生だったのです。

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