
映像技術革新の巨匠:ヒッチコックのカメラワークと編集術
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主観ショットと視点操作の妙技
ヒッチコックは観客の視線を登場人物の視線と重ね合わせ、感情移入や共犯意識を生み出す名人でした。カメラを人物の真正面から近距離で捉えた後、その人物の視点ショットに切り替えることで、観客に「自分がその場で見ている」ような没入感を与える手法を多用しています。
『裏窓』における望遠レンズ越しの覗き見シーンでは、主人公ジェフの双眼鏡やカメラの望遠レンズ越しに見たクローズアップ映像と、ジェフ本人の反応ショットを交互に映し出すことで、観客の視線と主人公の視線を一致させました。これにより観客は窓の向こうの怪しい光景に引き込まれ、主人公と一緒に推理しハラハラする立場となります。
さらに革新的だったのは、時にカメラを犯人の主観に置くことで観客を無意識に加害者側の視点に立たせる試みです。『サイコ』でノーマンが壁の穴からマリオンを盗み見るシーンでは、観客自身が盗み見しているかのような後ろめたさすら感じさせ、単なる恐怖だけでなく心理的スリルを増幅させました。
『フレンジー』では女性を殺害する犯人の視線から犠牲者を見るカットが挿入され、観客は一瞬ぞっとするような居心地の悪さを味わいます。このように視点操作を駆使することで、ヒッチコックは観客の感情を自在に動かし、映画体験を深化させたのです。
長回し撮影の実験と編集の隠蔽技術
ヒッチコックは編集によるリズムとカット割りの妙でサスペンスを生む一方、あえて編集を隠した長回しにも挑戦しました。最たる例が『ロープ』(1948年)で、全編が10分程度の長尺テイクを繋ぎ合わせてまるでワンシーン・ワンカットで進行しているように見せています。
制約ある空間で撮影された舞台劇的作品ですが、カメラが人物や小道具に寄った瞬間にこっそり編集点を挟む工夫でカットを感じさせません。これにより観客はまるで実時間で犯行の一部始終を目撃しているかのような緊張を味わいます。
『ロープ』以外でも「最も遠景から最も近景へ、一続きの移動で見せる」撮影法を多用しました。『第3逃亡者』(1937年)ではダンスホールの二階席全景から楽団のドラマー(犯人)の顔の大写しまでカメラがスーッとクレーン移動する有名なショットがあります。
同様に『汚名』(1946年)では上階から豪華な大広間を見下ろすショットからイングリッド・バーグマンの手の中の鍵に至るまで寄っていくクレーン&ズームショット、『サイコ』冒頭では都市の全景からホテルの一室の窓へと入り込むシーンなど、段階的に情報へ迫る移動撮影を巧みに用いています。フランソワ・トリュフォーはこれを「最大から最小へ」というヒッチコック演出の一法則と評しました。
ドリー・ズームとマクガフィンの発明
ヒッチコックが発明したドリー・ズーム(Vertigo効果)は、『めまい』で高所恐怖症の表現のために生み出された技法です。カメラバックとズームを同時に行い視覚的に背景が伸縮する不安定な映像を作り出し、主人公スコティが高所から下を見下ろした瞬間の恐怖感とめまいを観客に追体験させました。
この技法は後にスピルバーグの『ジョーズ』やスコセッシの『グッドフェローズ』など多くの映画で模倣され、現在では映画技法の標準的な手法の一つとなっています。一つの表現技法が映画史全体に与えた影響の大きさを物語る好例です。
また、ヒッチコックが普及させた「マクガフィン」という概念も重要です。マクガフィンとは物語上で登場人物たちが追い求める重要な目標や物体でありながら、実は観客にとってはそれ自体意味を持たないものを指します。『三十九夜』の国家機密の設計図、『汚名』のワイン瓶に入ったウラン、『北北西に進路を取れ』のマイクロフィルムなどが代表例です。
物語中ではこれらが謎や追跡劇の中心に据えられ、主人公と敵対者がそれをめぐって駆け引きを繰り広げますが、観客はその詳細を深く知らされることはありません。ヒッチコック自身、マクガフィンそれ自体には意味はなく筋書きを動かすための方便だと割り切っており、この装置によって観客の注意を引き付けつつ本質ではない要素に囚われすぎないようコントロールしていました。
特殊撮影技術の先駆的導入
ヒッチコックは特殊効果や編集面でも先進的でした。イギリス時代にはシュフタン・プロセス(鏡とミニチュア模型を用いた合成撮影)を用いて、『ブラックメール』の大英博物館シーンや『暗殺者の家』(1934年)ラストのアルバートホール・シーンで実物撮影が困難な場面を表現しています。
ハリウッドではリアプロジェクション(背景映像合成)を頻繁に使い、列車や車のシーン、飛行機の墜落、メリーゴーラウンドの暴走など臨場感ある映像を作り出しました。高所から人が落下する場面ではトラベリングマット合成を用いて俳優と背景の別撮り映像を合成し、危険なスタントを避けながらもリアルな恐怖を演出しました。
当時の合成技術には青みが出る欠点がありましたが、『鳥』ではディズニー開発のナトリウム蒸気プロセスをいち早く導入し、鳥と俳優をリアルに合成することに成功しています。この技術革新により、大群の鳥が人々を襲う場面をこれまでにない迫力で描き出しました。
編集面でも革新的でした。『サイコ』のシャワー殺人シーンでは1分足らずの間に約50カットもの細かいカット割りを行い、ナイフが肉体に刺さる瞬間を直接見せずとも恐怖を想起させるモンタージュ手法を極限まで追求しました。このような映像テクニックの細部に至るまで工夫を凝らし、観客に強い印象を残す場面を作り上げたのがヒッチコックの革新性と言えます。現代のデジタル技術による映像表現の基礎となる考え方が、既に彼の作品に見て取れるのです。