庶民の日常を映し出す巨匠:小津安二郎と並び称される五所平之助の映画人生

庶民の日常を映し出す巨匠:小津安二郎と並び称される五所平之助の映画人生

庶民の日常を映し出す巨匠:小津安二郎と並び称される五所平之助の映画人生

庶民劇の系譜を継ぐ映画作家としての出発

庶民劇の系譜を継ぐ映画作家としての出発

日本映画史において「庶民劇の巨匠」と称される五所平之助は、小津安二郎や成瀬巳喜男らと並んで日本を代表する監督として高く評価されている。しかし彼の映画人生はいかにして形成され、どのように「庶民劇」という日本映画の重要な潮流を担っていったのだろうか。

五所平之助が映画界に身を投じたのは1923年、松竹蒲田撮影所に助監督として入社してからである。彼が師事した島津保次郎は当時を代表する監督の一人で、小市民の生活を描く作風で知られていた。この島津の影響は五所の作家性形成において重要な礎となる。また、同じ蒲田撮影所では小津安二郎も活動を始めており、この二人は後に日本映画を代表する庶民劇の監督として歩むこととなる。

五所平之助と小津安二郎は、共に蒲田撮影所で育った同世代の監督でありながら、その作風には明確な違いがあった。小津が静謐でミニマリスティックな映像美と「静」の美学を追求したのに対し、五所はよりダイナミックな編集やカメラワークを駆使し、より多彩な感情表現を作品に込めた。しかし両者に共通するのは日常を映す確かな眼差しと、庶民の生活への深い共感である。

五所が師匠の島津保次郎や牛原虚彦らと共に確立していった「蒲田調」は、都市の小市民生活を描く新しい映画スタイルとして注目を集めた。撮影所長・城戸四郎の下でこの「蒲田調」は洗練され、後の日本映画における「庶民劇」の源流となる。五所はこうした流れの中で、より洗練された映像言語を獲得していくのである。

映画人生を貫いた庶民への眼差し

映画人生を貫いた庶民への眼差し

五所平之助の映画人生は、単に芸術家としての側面だけでなく、時代と社会の変化に向き合い続けた一人の人間の歩みでもあった。戦前から戦後にかけての激動の時代を生き抜いた五所は、製作環境や社会情勢の変化に対応しながらも、常に庶民の生活と向き合い続けた。

松竹の蒲田撮影所時代に才能を開花させた五所だが、1940年には撮影所長の城戸四郎と対立して松竹を退社する。1942年には新会社の大映へ移籍し、戦時体制下でも自らの作風を保ちながら作品を送り出した。太平洋戦争末期の1945年には召集令状を受けるも、持病のため即日帰郷となり、その直後に終戦を迎える。戦後は松竹に一度復帰するが、その後東宝に移籍。1948年の東宝争議では、従業員組合側に立って籠城闘争に参加したことで1950年に東宝から契約を解除されるという苦難も経験した。

こうした波乱に富んだキャリアの中で、五所は1951年に同じく東宝を去った映画人たちと共に独立プロダクション「スタジオ・エイト」を結成する。メジャー会社の枠にとらわれない作品作りを模索したこの動きは、戦後日本映画における「独立プロ運動」の先駆けとなり、後の映画人にも大きな影響を与えた。

五所の人間性を示すエピソードとして、東宝争議での行動は特筆すべきだろう。安定した立場を捨ててまで従業員の権利のために立ち上がったこの姿勢は、彼の作品に一貫して流れる「弱者への共感」という視点と無縁ではない。五所は映画作家としてだけでなく、一人の人間として社会と向き合い、その経験を作品に反映させていったのである。

晩年、1964年には前年に亡くなった小津安二郎の後任として日本映画監督協会の理事長に就任し、16年間にわたりその要職を務めた五所は、日本映画界の重鎮として業界の発展にも尽力した。1966年に紫綬褒章、1972年に勲四等旭日小綬章を受章するなど、その功績は公式にも認められた。

小津安二郎との比較にみる庶民劇の多様性

小津安二郎との比較にみる庶民劇の多様性

五所平之助と小津安二郎は、しばしば日本映画における庶民劇の双璧として並び称される。両者は共に同時代を生き、類似したテーマに取り組みながらも、その表現方法や作風において対照的な特徴を持っている。この比較を通して、日本映画における「庶民劇」の多様性と豊かさが見えてくる。

小津映画が「定点観測」とも呼べる安定したカメラポジションと切り返しのリズムによって構築されるのに対し、五所の映画はより自由な編集と多彩なカメラアングルによって展開する。小津が映像における「定型」を完成させたとするなら、五所はより即興的で自由な映像表現を追求したと言えるだろう。

また家族や日常生活の描き方にも違いがある。小津映画では家族の中の「断絶」や「別れ」がテーマとなることが多いのに対し、五所映画では共同体の中での「和解」や「結びつき」が強調される傾向にある。小津が東京の中産階級家庭を好んで描いたのに対し、五所はより多様な階層の庶民生活、特に下町の暮らしに焦点を当てることが多かった。

さらに重要な違いは、小津が晩年になるほど映像スタイルを洗練させ「小津調」を完成させていったのに対し、五所は生涯を通じて様々な映像実験を続け、新しい表現を模索し続けたことである。小津が「完成」を目指したとすれば、五所は常に「探求」を続けた監督だったと言えるかもしれない。

しかし両者に共通するのは、登場人物への温かな眼差しと人間への深い理解である。商業映画としての娯楽性を保ちながらも、そこに深い人間観察と社会的視点を織り込む手腕は、両者に共通する日本映画の至高の伝統と言えるだろう。実際に両者は互いの作風を尊重し合い、日本映画を代表する作家として同時代を生きた。小津の死後、五所がその後任として日本映画監督協会の理事長を務めたことは、両者の精神的な継承関係を象徴する出来事と言えるだろう。

日本映画史における五所平之助の位置づけと遺産

日本映画史における五所平之助の位置づけと遺産

五所平之助の映画人生は、日本映画の黄金時代を作り上げた重要な一章である。約100本の作品を通じて、彼は日本映画における「庶民劇」というジャンルの可能性を広げ、その深みと多様性を示した。日本映画史における五所の位置づけを考える上で重要なのは、彼が単なる「庶民劇の巨匠」にとどまらない多面的な映画作家だったということだろう。

技術革新の先駆者としての側面は、日本初のトーキー映画『マダムと女房』の成功に見られるが、それ以降も五所は常に新しい表現技術を作品に取り入れていった。戦後のステレオ録音技術の導入や、カラー映画における色彩の心理効果の探求など、五所は生涯にわたって映画表現の可能性を追求し続けた。また晩年に手がけた人形アニメ映画『明治はるあき』(1968年)では、日本伝統の人形芝居と映画映像を融合させるという新たな挑戦も行っている。

五所の代表作『煙突の見える場所』や『挽歌』に見られるのは、表面的なセンチメンタリズムに陥らない、深みのある人間ドラマの構築力である。そこには単なる「庶民の生活を描く」という枠を超えた、普遍的な人間ドラマが展開されている。また戦後復興期の混乱や社会の変化を鋭く捉えながらも、その表現は常に人間への信頼と共感に根ざしていた。

五所平之助が日本映画に残した最大の遺産は、芸術性と大衆性を高次元で融合させた「庶民劇」の価値を示したことだろう。彼の作品は一般観客に親しまれる娯楽作品でありながら、同時に深い人間洞察と社会的視点を内包していた。それは商業主義と芸術性の二項対立を超える、真の映画芸術の在り方を示すものだったと言える。

1981年の五所の死後も、彼の作品と精神は山田洋次をはじめとする後進の監督たちに引き継がれ、「庶民劇」は日本映画の重要な潮流として続いている。近年、国際的にも五所作品の再評価が進み、日本映画の古典として新たな視点から捉え直されている。日本のみならず世界の映画史においても、五所平之助の「庶民の日常を映し出す眼差し」は、映画という芸術の本質的な価値を示す指標として、今なお輝きを失っていない。

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