ブライアン・デ・パルマ:映画界を駆け抜けた50年のキャリア変遷
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学生時代から初期作品まで:映画作家への道程

ブライアン・デ・パルマは1940年、ニュージャージー州ニューアークで外科医の父を持つ家庭に生まれた。幼少期に両親の離婚を経験し、複雑な家庭環境で育った。コロンビア大学では当初物理学を専攻し、科学コンテストで賞を獲得するほど優秀な学生だった。しかしアルフレッド・ヒッチコックの『めまい』とオーソン・ウェルズの『市民ケーン』に深く感銘を受け、映画制作への道を歩み始める。
大学在学中から16mmフィルムで自主映画を撮影し始めたデ・パルマは、1963年の短編『Woton's Wake』で賞を受賞する。この成功が彼の映画作家としての自信を決定づけた。1960年代後半にはインディペンデント映画界で活動を開始し、若きロバート・デ・ニーロと組んで『グリーティングス』(1968年)を製作する。ベトナム徴兵忌避を題材にしたこの風刺的コメディは、ベルリン国際映画祭で銀熊賞を受賞し、デ・パルマの名を国際的に知らしめた。
続く『ウェディング・パーティー』(1969年)と『ハイ・モム!』(1970年)では、公民権運動や都市生活の混乱を背景に、メディアや人種差別への風刺を織り込んだ。特に『ハイ・モム!』の「Be Black, Baby」シーンは、白人市民に黒人の生活体験を強いる擬似ドキュメンタリーとして、当時のアメリカの人種問題とメディア扇動への痛烈な皮肉となった。これらの初期作品には、ベトナム戦争への批判や社会不安、アメリカ文化へのアイロニーが散見され、ニューシネマ期の若手作家らしい反骨精神が色濃く表れている。
ハリウッド進出と商業的成功への転換点

1970年代半ばにハリウッドへ拠点を移したデ・パルマは、まず低予算スリラー『悪魔のシスター』(1973年)で演出力を評価される。続く『ファントム・オブ・パラダイス』(1974年)は音楽業界の暗部を悪魔的に描いたロック歌劇として話題を呼んだ。しかし真の転機となったのは、スティーヴン・キング原作のホラー映画『キャリー』(1976年)である。内気な女子高校生の超能力覚醒を描いたこの作品は興行的に大成功を収め、シシー・スペイセクとパイパー・ローリーがアカデミー賞にノミネートされるなど高い評価を獲得した。
『キャリー』の成功により、デ・パルマはハリウッドで確固たる地位を築いた。プロム会場での惨劇を描いたクライマックスは映画史に残る衝撃的なシーンとなり、ティーンエイジャーの恐怖と虐げられた者の復讐というテーマが観客の心を強く打った。この作品でデ・パルマはホラー映画の名匠としての地位を確立し、以後も『愛のメモリー』(1976年)や超能力アクション『フューリー』(1978年)など話題作を次々と手掛けた。
1970年代の成功により、デ・パルマは独自の作家性を磨き上げていく。ヒッチコック流のサスペンス手法を現代的に解釈し、暴力性やエロスを露骨に描くことで従来のスリラー映画とは一線を画す作風を確立した。この時期の作品群は、古典映画への憧憬と現代的感性の融合という彼独特のアプローチを示しており、後のポストモダン映画文法の先駆けとなった。デ・パルマの名は一躍映画界に轟き、新世代の映画作家として注目を集めるようになる。
1980年代の黄金期:多彩なジャンルへの挑戦

1980年代に入ると、デ・パルマは作風の幅を大きく広げ、犯罪映画やサスペンス分野でも成功を収める。ヒッチコック流のサイコスリラー『殺しのドレス』(1980年)では、シャワー殺人シーンや女性主人公の途中退場など『サイコ』への明確なオマージュを示しつつ、独自の映像美学を確立した。続く陰謀スリラー『ミッドナイトクロス』(1981年)でデ・パルマ流サスペンスの完成形を提示し、映像技術への卓越したこだわりを見せつけた。
この時期の代表作となったのが、アル・パチーノ主演の『スカーフェイス』(1983年)である。1932年の同名ギャング映画のリメイクを1980年代のマイアミに翻案し、キューバ移民の麻薬王トニー・モンタナの栄光と破滅を描いた。脚本家オリバー・ストーンと組んで制作されたこの作品は、過激なバイオレンス描写と言葉遣いで物議を醸したものの、現在ではギャング映画の金字塔として評価される。トニー・モンタナの「世界は俺のものだ!」というセリフは映画史に残る名場面となり、ヒップホップなどポップカルチャーにも多大な影響を与えた。
1987年の『アンタッチャブル』では、禁酒法時代のシカゴを舞台にエリオット・ネスとアル・カポネの対決を描き、ケビン・コスナー、ロバート・デ・ニーロ、ショーン・コネリーという豪華キャストを起用した。特にショーン・コネリーはこの作品でアカデミー助演男優賞を受賞し、円熟の演技が高く評価された。駅の階段での銃撃戦では『戦艦ポチョムキン』へのオマージュを込めた乳母車のシーンを生み出すなど、映画史に残る映像演出を披露している。この成功により、一時低迷していたキャリアを見事に立て直した。
現代への継承:新境地開拓と映画史的評価

1990年代に入ると、デ・パルマは新たな挑戦を続ける。『カリートの道』(1993年)でアル・パチーノと再びタッグを組み、哀愁漂うギャング像を引き出した。しかし最大の転機となったのが、トム・クルーズ主演・製作の『ミッション:インポッシブル』(1996年)である。人気テレビシリーズの映画化という大作で、息詰まるようなサスペンス演出と最新VFXを融合させた。特に宙吊り状態でのデータ盗取シーンは無音の緊張感と映像トリックで観客を魅了し、全世界的な大ヒットとなった。
この成功により、デ・パルマは大作娯楽映画も手掛けうることを実証し、キャリアに新境地を拓いた。続く『スネーク・アイズ』(1998年)では13分間ノンストップ長回しのオープニングに挑戦するなど、意欲的な映像実験を続けた。しかし2000年のSF大作『ミッション・トゥ・マーズ』が興行的に失敗すると、ハリウッドの大作主流から距離を置くようになる。2000年代以降はヨーロッパに活動の場を移し、『ファム・ファタール』(2002年)や『ブラック・ダリア』(2006年)など1970~80年代のスタイル回帰とも言える作品を手掛けている。
デ・パルマの映画史的評価は、その独自性と影響力によって確固たるものとなっている。「映像の魔術師」として崇められる一方で「ヒッチコックの模倣者」といった批判も受けたが、古典への憧憬と現代的感性の融合という彼のアプローチは後の映画作家たちに多大な示唆を与えた。クエンティン・タランティーノをはじめ多くの監督が彼の影響を公言しており、スプリット・スクリーンや長回しなどの手法は現代映像作品でも頻繁に引用される。2019年には約7年ぶりの新作『ドミノ 復讐の咆哮』を公開し、現在80歳を超えても精力的に映像制作を続けている。50年以上にわたるキャリアで築き上げた遺産は、まさに映画史の貴重な財産と言えるだろう。