弱者の声を世界に届ける-原一男作品が描く社会の周縁で生きる人々

弱者の声を世界に届ける-原一男作品が描く社会の周縁で生きる人々

弱者の声を世界に届ける-原一男作品が描く社会の周縁で生きる人々

映画は弱者のためにある-原一男の一貫した信念

映画は弱者のためにある-原一男の一貫した信念

「映画は弱者や大衆のためにある」。この浦山桐郎の言葉を胸に刻み、半世紀以上にわたってカメラを回し続けてきた映画監督がいる。原一男である。彼は一貫して社会の周縁に追いやられた人々に寄り添い、その声を世界に届けてきた。障害者、フェミニスト、戦争被害者、公害患者、そして政治的マイノリティ。原のファインダーが捉えるのは、常に主流社会から疎外された人々の姿だった。

原は自身の映画観について、浦山桐郎の信条に加えて今村昌平の人間観も大きな影響を与えたと語っている。「人間は卑怯でスケベで俗っぽいものだが、だからこそ面白い」という今村の言葉は、原に人間の本質を見つめる視点を与えた。しかし原は、その視線を決してシニカルなものにはしなかった。むしろ、弱者たちの中にある人間的な矛盾や葛藤をも含めて、ありのままに受け止め、彼らの尊厳を守ろうとする姿勢を貫いた。

原が映画の道に進むきっかけとなったのは、障害児教育との出会いだった。東京都世田谷区の光明養護学校で介助員として働いた経験は、彼の人生観を根底から変えた。1969年に銀座ニコンサロンで開催した写真展「馬鹿にすんな!」は、障害児たちの生き生きとした姿を捉えたものだった。このタイトルに込められた怒りと愛情こそ、後の原作品を貫く精神の原点となった。障害者は社会から隔離され、その存在を隠蔽されてきた。原はそんな彼らの声を、映像という武器を使って社会に突きつけようとしたのである。

2022年、英国の経済誌『エコノミスト』は「原一男のドキュメンタリーは虐げられた人々の代弁者である」と題する記事を掲載した。この評価は的確である。原の作品群を俯瞰すると、そこには日本社会が抱える構造的な差別と排除のメカニズムが浮かび上がってくる。彼は個々の被写体を通して、より大きな社会システムの問題を問いかけ続けてきたのだ。

障害者解放運動の最前線『さようならCP』

障害者解放運動の最前線『さようならCP』

原一男の第一作『さようならCP』(1972年)は、脳性麻痺者の自立運動を追ったドキュメンタリーである。神奈川県の障害者自立運動グループ「青い芝の会」のメンバー、横塚晃一らの活動に密着し、彼らが既存の福祉制度や健常者中心の社会に異議を唱える姿を記録した。原は彼らの言語障害による聞き取りにくい声も、字幕なしでそのまま観客に届けた。健常者にとって「不快」かもしれない映像をあえて提示することで、社会の偏見と向き合わせたのである。

この作品の最も衝撃的な場面は、主人公が繁華街で詩を朗読し、警官に制止されると全裸になって抗議するシーンである。公共の場で障害者が自己主張することは当時タブーとされていた。しかし原は、彼らの過激な行動の背後にある切実な叫びを理解していた。「俺たちも人間だ」「なぜ隠れて生きなければならないのか」という魂の訴えを、そのまま映像に刻んだ。

当時の日本社会は、障害者を「保護」の対象とみなし、施設に隔離することが当然とされていた。原はそうした「優しい差別」の欺瞞を暴いた。障害者たちは施設ではなく地域で生きる権利を求めていた。彼らは介助を必要としながらも、自立した人間としての尊厳を主張していた。原のカメラは、その矛盾に満ちた現実をありのままに写し出した。

『さようならCP』で原が描いたのは、単なる障害者問題ではなかった。それは日本社会が抱える排除と包摂の構造そのものだった。健常者中心の価値観によって周縁化された人々が、いかにして自己の存在を主張し、社会に居場所を見つけるか。その闘いの記録は、50年後の今も色褪せることなく、私たちに問いかけ続けている。

女性の自立と矛盾を描く『極私的エロス』から現代の公害問題まで

女性の自立と矛盾を描く『極私的エロス』から現代の公害問題まで

『極私的エロス 恋歌1974』では、原は元妻・武田美由紀というフェミニストの生き方を追った。「男に頼りたくない」と言い放ち、子どもを連れて沖縄に移住した彼女は、黒人米兵との間に子をもうけ、自力出産を敢行する。原はその過程を克明に記録した。ここで描かれたのは、女性解放運動の理想と現実の間で揺れ動く一人の女性の姿だった。

武田美由紀は矛盾に満ちた存在だった。男性社会からの自立を求めながら、新たな恋人に依存し、理想と現実の狭間で苦悩する。原はそんな彼女の姿を、批判することも美化することもなく、ただありのままに記録した。それは1970年代の日本において、女性が自立して生きることの困難さを浮き彫りにした。同時に、その困難さの中でも自分の道を模索し続ける女性の強さと脆さを描き出した。

時代は下り、2017年の『ニッポン国VS泉南石綿村』では、大阪・泉南地域のアスベスト被害者たちの闘いを8年間にわたって記録した。泉南地域は日本のアスベスト産業発祥の地であり、多くの労働者や住民が石綿肺や中皮腫などの深刻な健康被害を受けた。原は、国に対して賠償を求める被害者団体の活動を丹念に追った。高齢の被害者たちが次々と亡くなっていく中、残された家族が裁判を続ける姿は胸を打つ。

2021年に発表された『水俣曼荼羅』は、実に20年に及ぶ取材の成果である。372分という長尺の中で、水俣病患者たちの日常と闘いを描いた。原は患者たちの痛みや苦悩だけでなく、彼らが持つ生きる喜びや尊厳も丁寧に描写した。チッソ企業城下町として栄えた水俣で、被害者として生きることの複雑さ。加害企業で働く親族との関係。地域社会の中での孤立。原はこうした重層的な問題を、患者一人ひとりの物語を通して描き出した。

政治的弱者と新たな希望-終わりなき記録

政治的弱者と新たな希望-終わりなき記録

2019年の『れいわ一揆』では、新興政治団体「れいわ新選組」の選挙活動を記録した。代表の山本太郎と、重度障害者の候補者たちが既存の政治に挑む姿を追った。原は彼らの活動を単なる政治運動としてではなく、社会から疎外された人々が自らの声を政治に反映させようとする試みとして捉えた。ALS患者の舩後靖彦、脳性麻痺の木村英子が国会議員に当選する瞬間は、日本の議会政治史上画期的な出来事だった。

原にとって、彼らは『さようならCP』の横塚晃一らの後継者だった。障害者が施設や家庭に閉じこもるのではなく、社会の中心である国会に進出する。それは半世紀にわたる障害者解放運動の一つの到達点でもあった。しかし原の視線は、決して楽観的ではない。彼らが直面する困難や、既存の政治システムとの軋轢も冷静に記録している。

原一男は80歳を迎えた今も、「遺言三部作」と位置付ける新作の制作を続けている。2024年末には『水俣曼荼羅 Part2』の製作に向けたクラウドファンディングを開始した。彼の情熱は衰えることがない。なぜなら、社会の周縁に追いやられる人々は今も存在し続けているからだ。貧困、差別、公害、戦争。形を変えながらも、弱者を生み出す構造は残っている。

原一男の映画は、単なる記録ではない。それは弱者たちの魂の叫びを、時代を超えて伝える媒体である。彼の作品を通して、私たちは自分たちが見ようとしない現実と向き合わされる。障害者、女性、公害患者、政治的マイノリティ。彼らは決して「他者」ではない。同じ社会に生きる人間として、その声に耳を傾ける必要がある。原一男という稀有な映画作家は、半世紀以上にわたってその橋渡しの役割を果たし続けている。彼の映画は、弱者の声を世界に届ける永遠のメディアとして、これからも私たちに問いかけ続けるだろう。

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