原一男監督の映像革命-日本ドキュメンタリー映画に刻まれた衝撃の軌跡

原一男監督の映像革命-日本ドキュメンタリー映画に刻まれた衝撃の軌跡

原一男監督の映像革命-日本ドキュメンタリー映画に刻まれた衝撃の軌跡

戦後日本ドキュメンタリー界に現れた異端児

後日本ドキュメンタリー界に現れた異端児

1972年、日本のドキュメンタリー映画界に衝撃が走った。障害者の日常と本音を赤裸々に描いた『さようならCP』が公開されたのである。監督は原一男。当時27歳の新鋭監督が放った処女作は、それまでの日本ドキュメンタリーの常識を根底から覆すものだった。障害を持つ人々が街頭で詩を朗読し、時には全裸になって抗議する姿を、原のカメラは容赦なく捉えた。観客は否応なく、社会の周縁に追いやられた人々の存在と向き合わされることになった。

原一男は1945年、山口県宇部市で生まれた。太平洋戦争末期、防空壕での誕生という波乱に満ちた人生の始まりだった。東京綜合写真専門学校を中退後、光明養護学校で障害児の介助員として働き、1969年には銀座ニコンサロンで障害児を題材にした写真展「馬鹿にすんな!」を開催している。当初は写真家を志していた原だが、この写真展で出会った脚本家志望の小林佐智子と共に映画制作の道へと進むことになる。

1970年代初頭、原は東京12チャンネルで過激な社会派ドキュメンタリーを手がけていた田原総一朗の作品に魅了される。田原の著書『青春 この狂気するもの』に感銘を受け、その撮影現場にも出入りするようになった。テレビ番組「ドキュメンタリー青春」シリーズを夢中で視聴し、田原が初めて劇映画を監督する際には助監督を志願したほどである。こうした田原からの刺激と経験を糧に、1972年、妻となった小林佐智子と共に自主制作プロダクション「疾走プロダクション」を設立。ここから原一男の映像革命が始まることになる。

戦後日本のドキュメンタリー映画は、亀井文夫、土本典昭、小川紳介といった巨匠たちによって築かれてきた。彼らは社会的コミットメントの強い記録映像作家として活躍し、特に1960年代末には小川プロダクションが農村に集団移住して住民と寝食を共にしながら映画を作る共同制作の流れが全盛だった。しかし原は、そうした集団的な製作手法とは一線を画し、妻の小林佐智子と二人きりで孤高に作品を生み出す道を選んだ。原はかつて小川プロの門を叩きかけたが思い直し、独自の道を歩むことを決意したという。この選択が、日本ドキュメンタリー史に新たな地平を切り開くことになる。

カメラを武器に既存の価値観を破壊する手法

カメラを武器に既存の価値観を破壊する手法

原一男の作品を特徴づけるのは、監督自身が観察者に留まらず能動的に撮影対象に関与していく手法である。原はカメラを「行動を促進し沸点に導くための装置」とみなし、対象者との間に意図的な仕掛けや挑発を介在させることで、従来の「客観記録」に留まらないドキュメンタリーを追求した。例えば、取材相手にカメラを向けることで演技・反発といった反応を引き出し、その過程自体を作品に収めることでフィクションとノンフィクションの境界を曖昧にする演出を行っている。

『極私的エロス 恋歌1974』では、原は自らの極めて私生活的な領域を題材に撮り上げた。元妻でフェミニストの武田美由紀を被写体とし、彼女の自由奔放な生き様と恋愛模様をカメラで追った。武田は原との間に一児をもうけた後、「男に頼りたくない」と原の元を去り子どもを連れて沖縄へ。彼女は沖縄で黒人米兵の恋人を得て妊娠すると、「自力出産するので、撮影してほしい」と原に依頼する。映画は出産直前の彼女と原(カメラ)との対話や、女性同士の赤裸々な会話なども交えつつ、クライマックスで自宅での出産シーンに至る。照明も医療もない室内で彼女が一人で産み落とす驚愕の瞬間をカメラは捉えた。

このようにドキュメンタリー本来の「やらせ的」要素をあえて隠蔽せず描くことで、映像の中に潜む虚構性までも暴き出そうとする姿勢は極めて先鋭的である。被写体のきわめて私的な領域にまでカメラを持ち込む大胆さは、恋人の出産シーンや、告発者が怒りのあまり取材対象に暴力を振るう瞬間など、観客の心地よい範囲を超えた「過激」で赤裸々な場面を忌避せず捉えることで知られる。そうしたショッキングなシーンを通じて観客の固定観念を揺さぶり、強い感情的反応や思考を引き起こすことも原の狙いと言える。

原の手法が最も鮮烈に示されたのが、13年ぶりの長編第3作『ゆきゆきて、神軍』(1987年)である。第二次戦争下のニューギニア戦線を生き延びた元日本兵・奥崎謙三が、終戦直後に起きた自軍内での兵士処刑事件の真相を暴くため、当時その命令を下したとされる元上官たちを次々と訪ね歩く姿を追っている。カメラの前で奥崎は「人類のためになるとしたら私は暴力を振るう」と公言し、取材相手が知らぬ存ぜぬで逃げようとすれば容赦なく激しい糾弾と言葉の暴力を浴びせ、時に取っ組み合いの殴打にまで及んで真実を引き出そうとする。原はそうした極限状況にも干渉せずカメラを回し続け、戦争責任を巡る日本人の深層心理と加害の記憶を白日の下に曝した。

世界が認めた革新性と新たな地平への挑戦

世界が認めた革新性と新たな地平への挑戦

原一男の革新的な手法は、国内外で高い評価を受けることになる。『ゆきゆきて、神軍』はベルリン国際映画祭でカリガリ映画賞を受賞し、日本映画監督協会新人賞も受賞した。この作品により、原は世界的にその名を知られることになる。イギリスの映画専門誌『Sight & Sound』が2014年に実施した歴代ドキュメンタリー映画トップ50の国際批評家投票では、原の『極私的エロス』と『ゆきゆきて、神軍』の2作品が選出されている。これは日本人監督の作品として突出した快挙であり、原の作家性が世界的にも高い評価を受けている証左と言える。

海外の映画監督からの評価も高く、エロール・モリスは原一男を「知られざるドキュメンタリーの天才」と称賛し、マイケル・ムーアは「日本のソウル・ブラザー(魂の兄弟)」と呼んでその才能を讃えている。実際、ムーアの『ボウリング・フォー・コロンバイン』や『華氏911』に見られるような、監督自身が前面に出て社会に切り込むスタイルには原の影響が指摘されている。ジョシュア・オッペンハイマー監督は、自身のインドネシア虐殺を扱った衝撃的な作品『アクト・オブ・キリング』(2012年)について、原一男の存在から大きな示唆を受けたことを認めている。

1995年、原は次世代の映像作家を育成するための私塾「CINEMA塾」を開講し、自ら塾長として若手の指導にあたった。同塾からは第1回作品『わたしの見島』(1999年)が劇場公開され、塾生による複数の自主映画が製作された。原の映像手法は、ドキュメンタリーにおける「演出と真実」の問題に新たな光を当てた点でも映画史的に意義深い。ロバート・フラハティの『極北のナヌーク』(1922年)以来、記録映画における演出(やらせ)の是非は長年議論されてきたが、原の作品は被写体に対する積極的な介入と挑発によって、従来タブー視された「意図的な演出」をも包み込みドキュメンタリーのリアリティを再定義した。

2019年にはニューヨーク近代美術館(MoMA)で回顧上映企画「Camera Obtrusa: The Action Documentaries of Kazuo Hara」が開催され、戦後日本ドキュメンタリー史における原の存在が改めてクローズアップされた。さらに2024年にはイタリアのラヴェンナ・ナイトメア映画祭でアジア人初となる功労賞「ゴールデン・リング」を受賞している。こうした国際的な評価は、原の映像革命が単なる一時的な衝撃ではなく、映画史に永続的な影響を与える革新であったことを証明している。

終わりなき映像革命の継続

終わりなき映像革命の継続

2017年、原一男は13年ぶりのドキュメンタリー『ニッポン国VS泉南石綿村』を発表した。大阪・泉南地域のアスベスト被害者団体による国家賠償訴訟を8年間にわたり追った社会派ドキュメンタリーである。原は70代になってもなお、権力と闘う弱者の姿を克明に記録し続けている。2019年には新興政治団体「れいわ新選組」の選挙活動を記録した『れいわ一揆』を公開し、2021年には実に20年に及ぶ取材から水俣病患者たちの闘いを記録した372分の大作『水俣曼荼羅』を発表した。

原自身は「映画は弱者や大衆のためにある」という浦山桐郎の信条と、「人間は卑怯でスケベで俗っぽいものだが、だからこそ面白い」という今村昌平の人間観、この二つに自らの映画観が形成されたと述べている。「強い者ではなく、虐げられた弱い者の人生に光を当て、その人々の幸福につながるような映画を作るべきだ」という信条は、デビュー以来一貫して作品に流れている。2022年には英国の雑誌『エコノミスト』が「原一男のドキュメンタリーは虐げられた人々の代弁者である」と題する記事を掲載した。

今日、原一男は小川紳介・土本典昭ら先達が他界した後の日本において「最も重要な現役ドキュメンタリー作家」と目されている。長年にわたり商業映画の周縁で独自の作品を発表し続けてきたが、その功績は21世紀に入り国内外で再評価が進んでいる。2024年末には、自身が「遺言三部作」と位置付ける『水俣曼荼羅 Part2』の製作に向けたクラウドファンディングを開始するなど、80歳を迎える現在もなお精力的にカメラを回し続けている。

原一男の映像革命は、日本のドキュメンタリー映画を国際水準に押し上げ、その表現の幅を拡張した。半世紀以上にわたる活動を通じて培われたその作品群は、今なお世界各地の映画祭で再上映され、新たな世代の観客と映画制作者に影響を与え続けている。彼が切り開いた地平は、単なる過去の遺産ではなく、現在進行形で日本と世界のドキュメンタリー映画に新たな可能性を提示し続けている。原一男という一人の映像作家が起こした革命は、まだ終わっていない。むしろこれからも、新たな表現の可能性を求めて進化し続けるに違いない。

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