今井正監督 - 日本映画界の巨匠

戦後民主主義を謳歌した青春映画の旗手

今井正監督は1912年、東京に生まれました。東京帝国大学在学中にマルクス主義に傾倒し、のちに中退。1935年にJ.O.スタヂオ（後の東宝）へ入社し、わずか2年で監督に昇進するという異例のキャリアを歩みます。戦前に9本の作品を手がけた後、彼の真価が発揮されるのは戦後の日本映画界でした。

1949年、石坂洋次郎の青春小説を原作とした『青い山脈』が空前の大ヒットを記録。敗戦後の日本に希望の光を投げかけるようなこの作品は、戦後民主主義の到来を明るく、爽やかに告げました。原節子や池部良といった人気俳優の出演、主題歌の国民的ヒットも相まって、今井正は一躍“戦後の青春映画の旗手”として脚光を浴びます。

翌年には『また逢う日まで』を監督し、戦争によって引き裂かれた恋人たちの物語を描きました。ガラス窓越しのキスシーンは当時の話題となり、キネマ旬報ベスト・テン第1位、毎日映画コンクール日本映画大賞、ブルーリボン賞作品賞を受賞。今井は名実ともに日本映画を代表する監督のひとりとなりました。

独立プロの旗手として歩んだ“もう一つの道”

1950年、東宝を退社した今井正は、フリーの立場で活動を開始します。時はレッドパージの最中。今井も追放リストに名を連ねていましたが、それに屈せず、独立プロダクション運動の中心的存在として、新たな映画づくりに挑みます。

1951年以降、『どっこい生きてる』『山びこ学校』『にごりえ』など、社会派色の濃い作品を次々と発表。特に、樋口一葉の短編を映画化した『にごりえ』は高い評価を受け、キネマ旬報ベスト・テン第1位を獲得しました。

1956年には『真昼の暗黒』を発表。冤罪事件として知られる「八海事件」をモデルとし、弁護士・正木ひろしの著書を原作に、権力による司法の乱用を鋭く告発しました。本作もまた同年のキネマ旬報ベスト・テン第1位を記録し、さらに第9回カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭では「世界の進歩に最も貢献した映画賞」を受賞しています。

『米』（1957年）、『純愛物語』（同年）とヒット作が続き、1959年には在日韓国・朝鮮人の問題に切り込んだ『キクとイサム』を発表。この作品もまたキネマ旬報ベスト・テン第1位に輝き、今井正は社会派映画の巨匠としての地位を確立していきました。

武士道への批判と、差別に向き合うまなざし

1963年には『武士道残酷物語』を発表。南條範夫の原作『被虐の系譜』をもとに、戦国から現代まで7代にわたる封建制度の暴力性を描き出しました。主演の中村錦之助は、7つの時代の男を一人で演じ分け、その壮大な構成とテーマ性は世界的にも注目されました。

本作は第13回ベルリン国際映画祭で金熊賞（グランプリ）を受賞。日本社会に根付いた「忠義」や「犠牲」の価値観を再考させる作品として、国内外に大きな反響を呼びました。

さらに1969年には、日本における被差別部落問題に真正面から向き合った『橋のない川』を2部作で映画化。住井すゑの同名小説を原作に、差別と闘いながらも人間らしく生きようとする人々の姿を描き、モスクワ国際映画祭ではソ連映画人同盟賞を受賞しました。

このように今井正は、戦後日本が避けて通りがちだった問題に果敢に挑み、“映画を通じて社会を見つめ直す”という視点を貫き続けました。

晩年も燃え続けた、映画への情熱

1970年代に入ってからも、その勢いは衰えません。1976年には、民俗的な生活感と家族のきずなを描いた『あにいもうと』を発表。1982年には、沖縄戦を題材にした『ひめゆりの塔』を手がけ、少女たちの悲劇と平和への祈りを静かに映し出しました。

そして1991年、今井は14年ぶりの新作『戦争と青春』を発表。この作品は一般市民からの出資による「市民プロデューサー方式」で製作され、話題を呼びました。第15回モントリオール世界映画祭ではエキュメニカル賞を受賞。晩年まで作品づくりに真摯に向き合い続けたその姿勢は、映画人としての矜持そのものでした。

同年11月22日、今井正は79歳で永眠。彼が遺した作品と姿勢は、日本映画の中に深く根を張り、今もなお生き続けています。

時代と共に生き、社会を見つめた映画作家

今井正のフィルモグラフィーを振り返れば、キネマ旬報ベスト・テンで第1位を獲得した作品が5本、ベルリン国際映画祭での金熊賞・銀熊賞など、国内外での評価も数多く記録されています。

しかし、その栄光以上に語るべきは、「誰のために映画をつくるのか？」という問いに、彼が一貫して答え続けたことです。 彼のカメラは常に市井の人々に向き、抑圧される声なき人々に光を当て、社会の矛盾に対して映画という手段で向き合い続けました。

戦後民主主義を肯定しながらも、その理想がどこかで失われていく現実を、彼は鋭く見抜き、映像で記録しました。弱者、労働者、マイノリティ──その姿を誠実に描き切った今井正の作品群は、今なお私たちに「社会と向き合うとはどういうことか？」を問いかけ続けています。

今井正。その名は、映画という表現を通じて時代と共に生きた、日本映画史における“社会の語り部”として、これからも忘れられることはないでしょう。