
森達也監督と社会問題の対峙 - マイノリティの視点を通して見る日本社会
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「排除される者」の視点から社会を映す
森達也監督の作品に一貫して存在するのは、社会的マイノリティや「排除される者」の視点から日本社会を見つめる姿勢だ。この創作態度は、単なる同情や擁護ではなく、むしろ私たち多数派の思考や行動様式を浮かび上がらせる装置として機能している。
例えば『A』シリーズでは、地下鉄サリン事件後のオウム真理教の信者たちの視点から社会を描写している。これは犯罪行為を美化するものではなく、「絶対悪」として単純化された対象の内側から、私たち社会の姿を映し出す試みだった。当時のマスメディアやそれを消費する私たち視聴者の姿が、信者たちの視点を通して鮮明に映し出されている。
この作品の誕生には、既に森監督自身が「排除される者」の立場を経験している。テレビ番組の企画として始まった撮影が「オウム真理教が悪く描かれていない」という理由で中止を命じられ、所属していた制作会社からは契約解除を通告された。しかし森監督はその後も独自に撮影を続け、自主制作の映画として完成させた。この経験自体が、「正しいとされる視点」から逸脱したものを排除しようとする社会の縮図であったともいえる。
メディアと権力の関係性への鋭い洞察
『i 新聞記者ドキュメント』では、東京新聞の記者・望月衣塑子の姿を通して、メディアと権力の関係性に鋭く切り込んでいる。記者会見での質問が制限され、特定記者への排除が行われる様子を映し出すことで、民主主義社会におけるジャーナリズムの役割と現状の乖離に警鐘を鳴らしている。
森監督は望月記者を単に称賛するのではなく、彼女が注目される理由が「当たり前のことをやっているから」だと分析。このことは、他のメディアや記者たちが本来あるべき姿から逸脱している現状を浮き彫りにしている。記者クラブ制度の閉鎖性や、メディアの権力に対する姿勢の問題を、具体的な人物とその行動を通して問いかけているのだ。
同時に、森監督自身もカメラを持って記者会見に参加しようとし、「入れろ」「入れない」の押し問答を繰り返す姿を映し出している。これは単なる演出ではなく、日本の閉鎖的なメディア環境を身をもって体験し、視聴者に伝えようとする試みでもある。森監督の作品は常に「観察者」と「参加者」の二重の視点を持ち、その緊張関係の中から生まれている。
集団心理と同調圧力の解剖
森監督が繰り返し取り上げるテーマの一つに、日本社会における同調圧力と集団心理の問題がある。特に最新作『福田村事件』では、関東大震災後に起きた虐殺事件を通して、不安や恐怖に駆られた集団が異質なものを排除していく心理メカニズムを描いている。
震災後の混乱の中で流言飛語に煽られ、讃岐弁で話す行商団を「朝鮮人」と疑い殺害するという事件の描写は、現代の私たちにも通じる普遍的な問題を提起している。SNSでの炎上や陰謀論の拡散など、現代のデジタル社会においても同様の集団心理が働く危険性を示唆しているのだ。
『FAKE』においても、「現代のベートーベン」として称えられた佐村河内守のゴーストライター騒動を通して、メディアが「物語」を創り上げ、私たち視聴者がそれを消費するプロセスを描いている。佐村河内個人の問題というよりも、「真実」が社会的に構築される過程に焦点を当て、その構造そのものを問うている。特に興味深いのは、佐村河内氏の「聴覚障害」をめぐる議論において、メディアがどれほど単純化した「悪/善」の二項対立を求めるかという点だ。実際の障害の程度や状態の複雑さよりも、「聞こえるか聞こえないか」という二者択一の「真実」を求める姿勢そのものが、現代のメディア環境の問題点を示している。
対話と共存の可能性
『福田村事件』に取り組んだ森監督の姿勢には、日本社会の負の歴史に向き合う勇気が感じられる。関東大震災時の朝鮮人虐殺は長らくタブー視されてきた歴史だが、震災から100年という節目に、その一端を劇映画として再現した意義は大きい。
森監督は地元の懸念にも理解を示しつつ、「歴史を振り返ることは、決して事件の発生地で今暮らす人々が責められることではない」と述べている。過去の出来事に向き合うことは、現在の私たちのためでもあるという姿勢は、森監督の社会問題への向き合い方を象徴するものだ。
森達也監督の作品に一貫して流れるのは、どれほど困難な状況にあっても対話の可能性を模索する姿勢だ。『A2』では、オウム排斥運動の住民と信者との間に生まれる意外な関係性が描かれ、直接的なコミュニケーションがいかに先入観を覆すかを示している。異なる立場の人々が対話を通じて理解を深めていく可能性。それは容易ではないが、諦めるべきではないというメッセージが森監督の作品には込められている。分断と対立が深まる現代社会において、森達也監督が投げかける問いは、私たちがいかにして共存していくかという本質的な課題に通じているのだ。