>ジョージ・ルーカス:『スター・ウォーズ』で映画史を変えた革命児
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学生映画から監督デビューまでの軌跡

ジョージ・ルーカス(1944年生まれ)は、20世紀後半から21世紀にかけて映画業界に多大な足跡を残したアメリカの映画監督・プロデューサー・脚本家である。彼のキャリアは1960年代後半に南カリフォルニア大学の映画学科で学生映画を制作したことから始まった。卒業後の1969年、友人であるフランシス・フォード・コッポラと共にサンフランシスコに映画制作会社「アメリカン・ゾエトロープ」を設立し、初の長編監督作となるディストピアSF映画『THX 1138』を1971年に制作した。
『THX 1138』はルーカスの短編学生映画を長編化した意欲作で、批評家からは評価されたものの興行的には失敗に終わった。しかしこの経験は若きルーカスにとって重要な学習の機会となった。1973年、ルーカスは自身の青春時代を投影した青春映画『アメリカン・グラフィティ』を発表する。この作品はカリフォルニアの若者文化を描いたノスタルジックな群像劇で、低予算ながら全米で大ヒットし、アカデミー賞で作品賞・監督賞を含む5部門にノミネートされる成功を収めた。
『アメリカン・グラフィティ』では複数の登場人物の群像劇を時間軸を交錯させて描くノンリニアな語り口と、物語の全編に流れるヒットナンバーのジュークボックス的な音楽演出が特徴となっており、この手法は当時として斬新なものだった。製作費わずか約77万ドルに対し全世界興収1億ドルを超える空前のヒットとなり、青春映画の新たな名作として評価された。この成功により、ルーカスはハリウッドで新進気鋭の若手監督として脚光を浴び、次なるプロジェクトとして幼少期から熱中していた宇宙冒険活劇への構想を練り始めた。
『スター・ウォーズ』誕生と世界的現象化

1970年代半ば、ルーカスは1930年代のSF連載活劇『フラッシュ・ゴードン』の映画化権獲得を試みたが叶わなかったため、代わりに自らオリジナルのスペースオペラ脚本に取り組んだ。こうして生まれたのが後に世界的現象となる『スター・ウォーズ』である。当初、この斬新な宇宙冒険劇の企画はハリウッドのほとんどの映画スタジオに断られたが、『アメリカン・グラフィティ』を高く評価していた20世紀フォックス社長のアラン・ラッド・ジュニアだけが企画の価値を信じ、制作をゴーサインした。
困難な制作過程を経て完成した『スター・ウォーズ』(1977年公開、後にエピソード4『新たなる希望』と改題)は、公開されるや予想外の大ヒットとなり、当時として史上最高の興行収入を記録した。同作はアカデミー賞で6部門を受賞し、以後のポップカルチャーに計り知れない影響を与える一大文化現象へと発展した。『スター・ウォーズ』は、神話学者ジョーゼフ・キャンベルの「英雄の旅」に影響を受けた古典的勧善懲悪の物語を下敷きにしつつ、神話・西部劇・侍映画といった異なるジャンルの要素を融合させた"宇宙の昔話"とも言うべき作品だった。
加えて、産声を上げたばかりの画期的な視覚効果と迫力あるサウンドデザインが観客を圧倒した。巨大宇宙船や異星の風景をリアルに描き出した特殊効果、ライトセーバーの音やR2-D2の電子音声など独創的な効果音、ジョン・ウィリアムズ作曲の重厚な交響曲による音楽、これら視覚・聴覚面の革新性も、『スター・ウォーズ』が単なる映画の枠を超えて社会現象化する大きな要因となった。第1作公開当時には長蛇の入場待ち行列やリピーターが各地で伝説となり、瞬く間に世界興収記録を更新するとともに、フィギュアなど関連商品の売り切れが相次ぐなど、映画を超えた一大ブームを巻き起こした。
シリーズ展開と映画界からの一時引退

ルーカスは続くシリーズ作品として、自ら原案・製作を担当しアーヴィン・カーシュナー監督に託した『帝国の逆襲』(1980年)およびリチャード・マーカンド監督に託した『ジェダイの帰還』(1983年)を世に送り出した。さらに盟友スティーヴン・スピルバーグと組んで、往年の冒険活劇へのオマージュである「インディ・ジョーンズ」シリーズを共同創造し、脚本・製作という形で関与した。これらの成功によって、ルーカスは「新ハリウッド」世代を代表する映画人として不動の地位を築き、商業的にも歴史上屈指の成功を収めた映画製作者となった。
しかし、『スター・ウォーズ』初作の過酷な制作で心身に大きな負担がかかったこともあり、ルーカスは1980年代以降しばらく監督業から離れる決断をした。『ジェダイの帰還』公開後は、自身の映画製作会社ルーカスフィルムを通じて製作・経営面に専念し、『インディ・ジョーンズ』シリーズや様々なスピンオフ作品、新人監督のプロデュースなどに注力した。1980年代後半には私生活で大きな転機が訪れる。ルーカスは学生結婚した編集者マーロン・ルーカスとの関係が、『スター・ウォーズ』制作による長期間の心労や家庭の不在が原因で悪化し、1983年に離婚した。
この離婚は莫大な慰謝料支出を伴い、さらに同時期にスター・ウォーズ関連商品の売上減少も重なったため、ルーカスは経営上の舵取りを迫られることになった。ルーカスは娘を1人引き取りシングルファーザーとなった後、80年代末から90年代にかけてさらに二人の子供を養子として迎え入れ、子育てに比重を置く生活を選んだ。このような背景もあって彼は長らく監督業から遠ざかっていたが、1990年代に入り子供たちが成長し、かつ映画のデジタル技術が飛躍的に進歩したことを目の当たりにすると、新たな創作意欲が湧き上がった。
プリクエル三部作と映画界からの引退

ルーカスは自ら手掛けた『スター・ウォーズ』神話の前日譚にあたるプリクエル三部作を構想し、約20年ぶりにメガホンを取ることを決意した。1999年から2005年にかけて、ルーカスは『スター・ウォーズ』プリクエル三部作(『エピソード1/ファントム・メナス』『エピソード2/クローンの攻撃』『エピソード3/シスの復讐』)を監督した。これらの作品は、興行的には世界的な大成功を収めシリーズの新世代ファンを獲得したが、物語や演出面では往年のファンや批評家から賛否両論となった。特に高度なCG技術を全面的に導入した映像表現は賞賛される一方、脚本や演技面には辛辣な批評も寄せられた。
プリクエル完結後の2005年、ルーカスはアメリカ映画協会より生涯功労賞を授与される。その直後、ルーカスは「自分にとってスター・ウォーズ全6作は一本の映画のようなもの。これですべて撮り終えたから賞を受け取る資格ができた」とユーモア交じりに語り、長年にわたるシリーズ創造に一区切りをつけた。2012年、ルーカスは突如大きな決断を下す。自身が設立し『スター・ウォーズ』シリーズ等の権利を保有するルーカスフィルムを、米ウォルト・ディズニー社に約40億ドルで売却すると発表したのである。
同時にルーカスは「大作映画の制作からは引退し、今後は小規模で個人的な映画作りに専念する」と表明し、実質的にハリウッドの第一線から退く意思を示した。売却後、ルーカスはディズニー社の個人筆頭株主の一人となりつつ、ルーカスフィルムの経営を後任のキャスリーン・ケネディに委ねている。以降は『スター・ウォーズ』新続三部作の制作に「クリエイティブ・コンサルタント」として助言を与える立場で断続的に関与したものの、物語の主導権は新世代の作り手に委ねた。引退後のルーカスは、教育・芸術支援の慈善事業や、自身の収集するイラスト・漫画アートを展示する「物語芸術美術館」の設立計画など、映画以外の活動にも力を入れている。