ハリウッド黄金期を生き抜いたマンキーウィッツ:『クレオパトラ』の挫折から赤狩りへの抵抗まで
共有する
ハリウッド黄金期を生き抜いたマンキーウィッツ:『クレオパトラ』の挫折から赤狩りへの抵抗まで
赤狩りに立ち向かった信念の人

1950年代初頭のハリウッドは、マッカーシズムによる赤狩りの嵐が吹き荒れた暗い時代でした。映画業界にも反共産主義の圧力が強まる中、ジョセフ・L・マンキーウィッツは創造の自由を守るために勇敢な行動を取りました。1950年、彼は映画監督組合(SDG、後の全米監督協会DGA)の会長に選出されていましたが、まさにその年に組合内で大きな政治的対立が発生しました。熱心な反共主義者であった大御所監督セシル・B・デミルは、組合員全員に対して反共産主義の忠誠宣誓を義務付けるべきだと主張しました。マンキーウィッツがヨーロッパ旅行で不在の間に、組合理事会はこの提案を一度可決してしまいます。しかし帰国したマンキーウィッツは、この決定に対して「そんなやり方はまるでモスクワだ」と激しく反発しました。彼にとって、思想信条の自由は民主主義の根幹であり、それを守ることこそがアメリカ的価値観だったのです。デミルは激怒し、マンキーウィッツを会長職から解任しようと署名運動を画策しました。しかし10月に開かれた総会では、ジョン・ヒューストン、ウィリアム・ワイラー、ビリー・ワイルダーといった著名な監督たちがマンキーウィッツを支持し、彼の会長職続投が圧倒的多数で決議されました。最終的に忠誠宣誓は任意署名という形に軟化されたものの、マンキーウィッツは組合員の自由意思と団結を守り抜いたとして、同時代の映画人から大きな賞賛を受けました。この出来事は、彼が単なる優れた映画作家であるだけでなく、信念を持って行動する勇気ある人物であったことを示しています。
スタジオシステムとの創造的な戦い

マンキーウィッツのキャリアは、ハリウッドのスタジオシステムとの緊張関係の中で形成されました。彼は1930年代にMGMで脚本家・プロデューサーとして成功を収めましたが、スタジオの大物ルイス・B・メイヤーとの意見対立により、1944年にMGMを離れることになりました。この対立の背景には、創造的な自由を求めるマンキーウィッツと、商業的成功を最優先するスタジオ側との根本的な価値観の違いがありました。20世紀フォックスに移籍後、マンキーウィッツは監督としてのキャリアを開始し、自らの芸術的ビジョンをより直接的に実現できるようになりました。1949年から1950年にかけて、彼は『三人の妻への手紙』と『イヴの総て』で2年連続アカデミー賞監督賞・脚本賞をダブル受賞するという快挙を成し遂げます。この成功により、マンキーウィッツはスタジオシステム内でも一定の創造的自由を獲得しました。1953年には独立プロダクション「フィガロ」を設立し、製作・脚本・監督の三役を兼ねて『裸足の伯爵夫人』を世に送り出しました。この作品では、ハリウッドのスター製造システムに対する痛烈な批判が込められており、映画産業を牛耳る富豪たちに翻弄される女優の悲劇を描いています。マンキーウィッツは体制の内部にいながら、その矛盾や問題点を鋭く指摘する作品を生み出し続けました。彼の映画は娯楽性を保ちながらも、映画産業や社会に対する批評的な視点を忘れることはありませんでした。
『クレオパトラ』という巨大な試練

1961年、マンキーウィッツのキャリアに最大の試練が訪れました。20世紀フォックスの超大作『クレオパトラ』の監督に急遽抜擢されたのです。この作品は当初から様々な問題を抱えており、前任監督の降板、主演女優エリザベス・テイラーの病気、ロケ地の変更など、次々とトラブルに見舞われました。マンキーウィッツは混乱した現場を立て直すために奮闘しましたが、製作費は当初予算の何倍にも膨れ上がり、撮影期間も大幅に延長されました。さらに撮影中に発生したテイラーとリチャード・バートンの不倫スキャンダルは世界中のメディアの注目を集め、作品そのものよりもゴシップが話題の中心となってしまいました。途中で20世紀フォックスの社長に復帰したダリル・F・ザナックは、予算超過の責任を問う形で一時マンキーウィッツを解任する事態にまで発展しました。完成した『クレオパトラ』は1963年の年間興行収入第1位となるヒット作となったものの、巨額の製作費を回収するには至らず、批評家からの評価も賛否両論でした。この超大作の失敗により、マンキーウィッツの評判は大きく傷つき、彼自身もしばらく監督業から遠ざかることになりました。しかしこの苦い経験は、彼に映画製作の限界と可能性について深く考えさせる機会となりました。後年、マンキーウィッツは『クレオパトラ』について「あれは映画ではなく、現象だった」と述懐しています。巨大な製作規模と商業的圧力の中で、いかに芸術的完成度を保つかという問題は、現代の映画製作にも通じる普遍的な課題といえるでしょう。
晩年の復活と映画史への貢献

『クレオパトラ』の挫折から数年後、マンキーウィッツは1967年に『三人の女性への招待状』で映画界に復帰しました。その後も西部劇風コメディ『ならず者部隊』など、新しいジャンルに挑戦し続けました。そして1972年、彼は心理サスペンス劇『探偵<スルース>』を監督し、批評的にも商業的にも成功を収めました。ローレンス・オリビエとマイケル・ケインという二人の名優による緊迫した演技合戦は高く評価され、マンキーウィッツ自身も4度目となるアカデミー監督賞ノミネートを受けています。この作品を最後に映画監督業から引退したマンキーウィッツでしたが、その後もインタビューやドキュメンタリー出演を通じて、自らの映画観や経験を後進に伝え続けました。彼の遺した作品群は、時代を超えて映画ファンや研究者に新たな発見と楽しみを提供し続けています。特に『イヴの総て』は、AFI(アメリカ映画協会)の各種ランキングで常に上位に選ばれ、舞台化やミュージカル化もされるなど、その影響力は衰えることがありません。マンキーウィッツが示した、知的で洗練された脚本と緻密な演出の融合という映画作りの姿勢は、ビリー・ワイルダー、ウディ・アレン、アーロン・ソーキンといった後の世代の映画作家たちに受け継がれています。1993年に83歳で逝去したマンキーウィッツは、ハリウッド黄金期を代表する巨匠として、また時代の荒波に翻弄されながらも信念を貫いた映画人として、永遠に映画史に刻まれる存在となりました。彼の人生と作品は、映画が単なる娯楽を超えて、人間の真実を描く芸術となりうることを証明し続けています。