
核と人間の狂騒劇 - 長谷川和彦監督「太陽を盗んだ男」
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時代を挑発した核テロの物語

1979年、日本映画界に衝撃を与えた長谷川和彦監督の「太陽を盗んだ男」。中学校の冴えない理科教師・城戸が、ウラン235を盗み出し、自作の原子爆弾を作り上げるという衝撃的な設定のこの映画は、当時のタブーに真っ向から挑戦した。原発全盛期の日本で核テロの可能性を描いたこの作品は、その大胆な題材選択で物議を醸した。主人公を演じた沢田研二の孤高の演技と、冷静かつ緻密に核兵器製造過程を描いた脚本は、観客に不気味な現実感を与えた。技術的に可能であるがゆえに恐ろしい、という逆説がこの映画の起点となっている。
リアリズムと寓話性の融合

「太陽を盗んだ男」の際立った特徴は、そのリアリズムと寓話性の見事な融合にある。長谷川監督は核兵器製造という非現実的とも思える行為を、極めて日常的かつ詳細に描写する。専門家の監修を受けた技術的描写は冷徹なまでに正確で、そのプロセスが淡々と進行していく様は観る者を戦慄させる。一方で、城戸の行動原理は現実的な動機を超え、近代文明への根源的な異議申し立てという寓話的な意味を帯びている。彼の無表情な語り口と淡々とした行動は、個人の内面ではなく、システムそのものへの批判を象徴している。この二重構造が、この映画を単なるサスペンスを超えた深い思想性を持つ作品へと昇華させている。
社会システムへの痛烈な批判

映画の転換点は、城戸がウラン入りのカプセルを東京周辺に配置し、政府に取引を持ちかけるシーンだ。彼の要求は意外にも金銭ではなく、テレビでの10分間のメッセージ放送権。そこで彼が語るのは、原子力の危険性と管理体制の欺瞞についてだった。長谷川監督はこの設定を通じて、当時の原子力政策と情報統制に鋭い批判の矢を放つ。官僚、警察、メディアの混乱と対応を描くシーンは、緊急時における社会システムの脆弱性を暴き出している。特に印象的なのは報道管制下でも真実を追求するジャーナリスト役の山崎努の存在で、情報統制社会における報道の役割を問いかけている。
予言的映画としての再評価

「太陽を盗んだ男」の結末部分では、城戸が警察に射殺され、彼の作った爆弾は冷却材が足りずに自壊する。しかし、彼の投げかけた問いは解決されることなく観客に委ねられる。公開から40年以上経った今日、福島第一原発事故を経験した私たちにとって、この映画はあまりにも予言的だったと言える。現代の視点から見ると、この作品は単なるエンターテイメントではなく、科学技術と人間社会の関係性を問う重要な警鐘だった。長谷川和彦監督の冷徹な視点と鋭い社会批評は、時代を超えて私たちに問いかけ続ける。「太陽を盗んだ男」は、日本映画史における反体制的傑作として、そして予言的作品として、今なお色褪せない輝きを放っている。