プレストン・スタージェスのキャリア変遷と作風進化

プレストン・スタージェスのキャリア変遷と作風進化

脚本家から監督へ:初期作品における演出スタイルの確立

脚本家から監督へ:初期作品における演出スタイルの確立

プレストン・スタージェス(1898-1959)は、ハリウッド黄金期における最初期のライター・ディレクターとして映画史に名を刻んだ。ブロードウェイとハリウッドで脚本家として成功を収めていた彼が監督業に乗り出したのは、自作脚本の演出権を得るためだった。

監督デビュー作『偉大なるマッギンティ』(1940年)は、自身の脚本をわずか10ドルで売り渡す代わりに監督の座を得たという有名な逸話とともに公開された。大恐慌下の無名男が汚職政治で成り上がる風刺劇として構成されたこの作品は、低予算にもかかわらず驚きのヒットとなった。

スタージェスは早くもデビュー作で、アメリカ的成功物語の裏にある欺瞞や腐敗をアイロニカルに暴く手腕を示した。酒場での回想というフラッシュバック形式を採用し、政治腐敗への批評をユーモアに包んで描いた演出は、後の作品群に共通するテーマの片鱗を見せていた。マッギンティは偽装選挙で出世し州知事まで上り詰めるが、たった一度の正直さで失脚し、物語終盤では国外逃亡してバーテンダーに身を落とす。この「成り上がりと転落」という構図は、スタージェス作品全般に共通する重要なテーマとなった。

第二作『クリスマス・イン・ジュライ』(1940年)では、社会風刺と機知に富んだ対話がさらに洗練された。懸賞の当選を夢見る平凡なサラリーマンが、悪戯による誤報の当選通知で一夜にして成功者として担ぎ上げられる物語は、アメリカ人の成功崇拝への痛烈な皮肉を込めている。主人公ジミーは「自分が偽物だと知らないまま成功者になった偽物」であり、周囲の大人たちは彼を実力ではなく「当選」という結果で評価する。このように初期作品では、軽妙なコメディの中に庶民の価値観や成功神話への批判が織り込まれ、スタージェスの作風の基盤が確立されていった。

黄金期の完成度:中期作品における洗練されたコメディ演出

黄金期の完成度:中期作品における洗練されたコメディ演出

1941年から1944年にかけてのスタージェスの中期は、まさに黄金期と呼ぶに相応しい時期だった。『レディ・イヴ』『サリヴァンの旅』『パームビーチ・ストーリー』『モーガンズ・クリークの奇跡』『凱旋の英雄万歳』といった傑作コメディを立て続けに世に送り出し、いずれもオリジナリティと輝きに満ちた作品として映画史に刻まれた。

中期作品の最大の特徴は、台詞回しのスピード感と場面展開のテンポの良さにある。スタージェスの対話劇は「息つく暇もないほどの猛烈なテンポ」が持ち味となり、観客を笑いの渦に引き込んだ。同時代のマルクス兄弟やW・C・フィールズのような一発ギャグではなく、登場人物たちが本心から言いたいことを喋っているだけなのに結果として可笑しい、というリアルな会話劇を作り上げた点も注目される。

『レディ・イヴ』(1941年)は、スタージェス喜劇のエッセンスが凝縮されたロマンティック・コメディの傑作である。女詐欺師ジーンと純朴なヘビ研究家チャールズとの騙し騙されの恋愛劇を、巧みな脚本と演出で描いた。船上の場面でジーンが手鏡の中に映る船室を覗き込みながら他の令嬢たちの様子を独り実況するシークエンスでは、鏡越しのフレーム内フレームという映像手法を用い、ヒロインの機知と優位性を視覚的に表現した。

『サリヴァンの旅』(1941年)では、スタージェス自身の業界であるハリウッドを風刺の対象にしつつ、人間ドラマとしての深みも備えた作品に仕上げた。ヒットメーカーの映画監督が社会派ドラマを撮ろうと決意し、自ら放浪者に扮して世間の苦難を体験する旅に出る奇抜な設定を通して、当時流行していた大衆迎合的な社会派作品への皮肉を込めた。牢獄で囚人たちとミッキーマウスのアニメを観て「笑いこそ人々に必要なものだ」という真実に目覚める主人公の姿は、笑いの価値を再認識したスタージェス自身のメッセージでもあった。

挫折と模索:後期作品における作風の変容と実験

挫折と模索:後期作品における作風の変容と実験

1944年まで絶頂期を極めていたスタージェスだが、その後のキャリアは試練の連続となった。パラマウント社で異例の自由裁量を手にしていた彼は、『凱旋の英雄』(1944年)完成後に同社との契約が満了し、独立プロへと活躍の場を移した。しかし移籍第1弾となった伝記映画『偉大なる瞬間』(1944年)の失敗が暗い影を落とした。

笑気ガス発明にまつわる実話を基にした意欲作だったが、スタージェスのシリアスなアプローチはスタジオ幹部に理解されず、コメディ調に再編集された公開版は芸術的にも商業的にも大敗を喫した。この挫折がキャリアに与えた痛手は大きく、以後のプロジェクトに暗雲が立ち込めることになった。パラマウント退社後、スタージェスは風変わりな大富豪ハワード・ヒューズと組んで独立プロを立ち上げ、サイレント映画の伝説的コメディ俳優ハロルド・ロイドを主演に迎えた。

その成果が『ハロルド・ディドルボックの罪』(1947年)である。ロイドがかつてサイレント期に演じた人気キャラクターの20年後を描く異色作で、サイレント喜劇とスタージェス流トーキー喜劇の融合を狙った意欲作だった。青春時代に栄光を掴んだものの中年になって冴えない生活を送る主人公が、会社をクビになったのを機にヤケ酒をあおって大暴れし、紆余曲折の末に猛獣使いになって大金を手にするシュールな展開は、スタージェス作品らしいテンポの良い対話や風刺も一部には健在だった。しかし製作自体が難航し、気まぐれなヒューズは完成後も作品を棚上げにして公開を遅らせ、結局3年越しに再編集版を細々と封切る有様だった。

スタージェスはその後、20世紀フォックス社に招かれて一時的に名声を取り戻した。1948年の『殺人幻想曲』は、鬼才スタージェスが手掛けた異色のブラックコメディとして注目される。指揮者の主人公がコンサートでクラシック音楽を演奏しながら、妻の不貞を疑って殺害計画の妄想シークエンスを繰り広げるユニークな構成で、音楽と映像演出が見事に融合した作品だった。3種類の幻想シーンそれぞれにロッシーニやワーグナーの楽曲を対応させ、音楽の高まりに合わせて映像も展開するという試みは、この時期のスタージェスならではの映像技法と言える。しかし公開当時の観客にはこのブラックな笑いが受け入れられず、興行的には振るわなかった。

映画史への遺産:現代への影響と再評価

映画史への遺産:現代への影響と再評価

スタージェスが映画史に残した功績は、彼自身の作品の枠を超えて後世の多くの映画監督たちに受け継がれている。形式的な面では、スタージェスが切り開いた「脚本家が自作を監督する」という道が、ハリウッドにおける作家主義的監督の先駆けとなった。彼の成功により、ビリー・ワイルダーやジョン・ヒューストンといった脚本出身の監督たちが台頭する下地が作られた。

現代の映画作家で、とりわけスタージェスへの言及が多いのがコーエン兄弟である。彼らはインタビューで繰り返しスタージェスを敬愛する映画作家として挙げており、実際にその影響は作品にも色濃く表れている。代表例が『オー・ブラザー!』(2000年)で、タイトルからして『サリヴァンの旅』への直接のオマージュとなっている。コーエン兄弟の初期の傑作コメディには、スタージェスが得意としたクセの強い脇役陣による騒動や、ブラックユーモア混じりの社会風刺が随所に見られる。

ウェス・アンダーソンもまた、しばしば「プレストン・スタージェス以来のオリジナリティを持つコメディ作家」と評される。アンダーソンの作風は一見するとスタージェスとは異なるが、その作品世界を貫く風変わりなキャラクターの群像や洒脱な会話劇、ユーモアとペーソスの同居といった点は、スタージェス的なエッセンスと共通している。アンダーソン作品の登場人物たちは多種多様な職業・性格の持ち主が集まり、それぞれ勝手に生きている様子が滑稽でありながらも愛おしく描かれる。

スタージェスは当時こそ「一発屋」のような誤解を受けたり、キャリア後半の失速で評価を落としたりもしたが、現在では再評価が進み、ハリウッド黄金期を代表する作家として不動の地位を占めている。彼の残したわずか十数本の監督作は、後進の映画監督たちにとって創作の宝庫であり、そのシャープなダイアログや構成の巧みさ、ユーモアに潜む批評性は色褪せることがない。プレストン・スタージェスの笑いの遺伝子は、形を変えながら今なお現代のスクリーンに受け継がれている。

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