ハワード・ホークスの映画技法進化:ジャンルを超えた巨匠の軌跡

ハワード・ホークスの映画技法進化:ジャンルを超えた巨匠の軌跡

サイレントからトーキー黎明期の実験精神(1920年代後半〜1930年代前半)

ホークスは1920年代後半に映画監督としてデビューし、サイレント映画からトーキーへの大きな転換期を経験しました。この時期から既に、派手な演出を避け過度な芝居がかった演技よりも自然で写実的な演技を好む傾向が見られました。他の監督が舞台的な大げさな演技を用いる中で、ホークス作品は「自然体」の空気を醸し出していたのです。

1930年の『夜空の英雄』では、当時画期的だった録音システムを用いて柔軟なクロスカッティングを可能にし、舞台劇的な制約を打破しました。特に注目すべきは、ホークスがこの作品で独自の「セリフ術」を確立したことです。登場人物同士に素っ気なく短いセリフを高速でやり取りさせ、時にはセリフを被せて同時に話させるという大胆な試みでした。

プロデューサーは当初その早口でかぶせ気味の会話に難色を示しましたが、興行的成功を収めると一転して称賛され、以後トーキー映画における新しい会話劇スタイルの手本となりました。この「高速で重なり合うダイアローグ」は後年のホークス作品、特にスクリューボール・コメディで顕著な特徴となります。

ギャング映画『暗黒街の顔役』(1932年)では、当時として極めて衝撃的な暴力描写とスピーディな展開で注目され、ギャング映画というジャンルの原点を築きました。モンタージュ的な切れ味の良い編集と連射音のように切り込むセリフ回しを駆使し、登場人物が次々と倒れていく場面では画面上に「X」印を巧妙に構図として配するなど視覚的工夫も凝らされています。この作品は後のフィルム・ノワールや犯罪映画の作家たちに多大な影響を与え、犯罪映画における物語構造の雛形を提供したのです。

円熟期の多ジャンル展開(1939年〜1950年代)

1939年前後から1950年代にかけて、ホークスは円熟期を迎え、数々の代表作を世に送り出しました。この時期、彼の演出スタイルは洗練の域に達し、観客を惹きつける物語運びとキャラクター描写の巧みさで高い評価を確立します。いかなるジャンルでも自らの作家性を発揮し、「ホークス作品だ」と一目で分かる統一感を保ちながら、観客を楽しませる娯楽性を追求しました。

『ヒズ・ガール・フライデー』(1940年)では、新聞記者の元夫婦を主人公に据えたテンポ抜群のロマンティック・コメディを完成させました。男女が息もつかせぬ早口でまくしたてるセリフの応酬、同時に喋ってセリフがかぶる大胆な会話劇は映画史上でも屈指のスピード感です。ホークスは「映画史上最速の会話劇にする」ことに執念を燃やし、現場に特別な音響ミキサーを用意して俳優のセリフの間合いを可能な限り詰めて録音しました。

第二次世界大戦期から戦後にかけて、アクションやフィルム・ノワールの分野でも力量を示しました。1944年の『脱出』では、ヘミングウェイの小説を下敷きに製作したレジスタンス冒険劇で、男女の張り詰めた駆け引きと戦時下のサスペンスを巧みに両立させました。特にボガートと新人女優バコールの掛け合いは緊張感と魅惑に満ちており、ホークスはこの新人女優の低くハスキーな声と自信に満ちた所作を引き出すため、自ら演技指導やイメージ作りに深く関与しました。

1946年のフィルム・ノワール『三つ数えろ』では、ハードボイルド小説を原作としつつもプロットの複雑さよりキャラクター同士の掛け合いやムードを重視しました。事件の真相解明は二の次であり、観客の記憶に残るのは洒脱な会話と妖しい雰囲気です。ホークスの演出方針はあくまで「物語と登場人物を際立たせるための映像」であり、技巧をひけらかすことを良しとしませんでした。「ストーリーの整合性よりもキャラクターが同じ空間で見せる化学反応こそ映画の滋味である」という信念が顕著に現れた作品でした。

西部劇への貢献と作風の確立(1948年〜1960年代前半)

ホークスの円熟期を語る上で忘れてはならないのが、西部劇への貢献です。特に1948年の『赤い河』と1959年の『リオ・ブラボー』は、西部劇史に残る名作として高く評価されています。『赤い河』では、開拓時代の大規模な牛追いを背景に、養父と養子の対立と和解をドラマチックに描きました。クライマックスでは一触即発の銃撃戦ではなく、殴り合いとそれを制止する女性という形で決着させ、人間関係の修復と和解に落とし込むあたりにホークスらしい人間ドラマ志向が表れています。

そしてホークス西部劇の到達点といえるのが『リオ・ブラボー』(1959年)でしょう。保安官と仲間たちが町を牛耳る悪党一味に立ち向かう物語ですが、その魅力の大半はアクションそのものより保安官たちの絆と日常の掛け合いにあります。ホークス自身、「『リオ・ブラボー』はプロ同士が職務を全うする物語だ」と述べており、見せ場の銃撃戦よりもむしろ保安官たちが酒場や留置場で過ごす何気ない時間に重きを置いています。

劇中では敵に包囲された緊迫状態の夜、仲間たちが留置場でリラックスして音楽を奏でるシーンがあります。ディーン・マーティンとリッキー・ネルソンがギターを手に取り、西部の哀愁漂う歌をデュエットし始めると、ウォルター・ブレナンもハーモニカで即興伴奏を加えます。ここには銃撃戦は一切登場せず、音楽を共有するひとときを通じて登場人物間の絆と士気の高まりが表現されています。

興味深いことに、本作はフレッド・ジンネマン監督の『真昼の決闘』へのアンチテーゼとも言われます。『真昼の決闘』では保安官が町の人々に助けを求め孤立無援で敵に立ち向かいますが、ホークスとジョン・ウェインはこの描写を「保安官の信念やプロ意識に反する」と批判し、代わりに保安官が己の責務として自ら選んだ仲間とともに戦い抜く姿を描いたのです。結果として『リオ・ブラボー』は、職業倫理と仲間との連帯を称える作品として、西部劇ファンのみならず映画製作者たちからも長く愛される存在となりました。

確立された作風と時代のズレ(1950年代後半〜1970年代)

1950年代後半から60年代にかけて、ホークスはベテラン巨匠として円熟の境地に達しますが、一方で時代の新潮流とのズレも生じ始めます。1955年のオールスターキャスト『ピラミッド』が興行的に失敗した後、ホークスは好評だったジャンルへ回帰する傾向を見せました。つまり、自ら最も得意とする分野である西部劇やアクション・コメディの路線に戻り、安定感のある作品作りに徹したのです。

『リオ・ブラボー』の成功に気を良くしたホークスは、実質的に同じ筋立ての作品を再度手掛けます。『エル・ドラド』(1966年)と『リオ・ロボ』(1970年)は、いずれも保安官と仲間が立てこもって悪党を迎え撃つという『リオ・ブラボー』と酷似したプロットを持ちます。ホークス自身、「観客がもう一度見たいと言うなら、私はもう一度作るまでだ」と語ったとも言われ、時代の変化があろうとも自分の語りたい物語を繰り返し描くことを厭いませんでした。

しかし1960年代後半は映画界全体が大きく変貌した時期でもありました。テレビの台頭や観客の趣味の多様化、新世代の作家たちの登場により、古典的作風は次第に「古臭い」と見なされる向きも出てきます。ホークスの演出スタイルは依然として職人技の冴えを見せていたものの、その堅実さゆえに当時勃興しつつあったニューシネマの尖鋭的な作品に比べて地味に映り、若い観客層の心を掴むには苦戦しました。

キャリア後期に顕著な傾向として、テンポの緩徐化が挙げられます。例えば『ハタリ!』(1962年)はアフリカで野生動物を生け捕るハンターたちの冒険コメディですが、明確な筋書きよりもサファリ仲間の日常エピソード集のような構成になっており、2時間半近い上映時間の中でゆったりとした空気が流れます。ホークスは筋より登場人物を"その場に存在させる"ことに重きを置き、観客を彼らの仲間に引き入れることを狙ったのです。このアプローチは「プロットの簡素化・人物描写の深化」と言えますが、同時に新鮮味の欠如や冗長さとの紙一重でもありました。それでもホークス自身は晩年に至るまで「面白い物語があるならジャンルは問わないし、観客が求める限り同じ題材を掘り下げる」と語り、流行に迎合しない信念を崩しませんでした。

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