
映画の闇を照らす光 - 森崎東の生い立ちと映画界への道
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映画の闇を照らす光 - 森崎東の生い立ちと映画界への道
戦争の影を背負った少年時代

「人間が生きることの過酷さと尊厳」を描き続けた映画監督・森崎東(1927-2020)。社会の底辺に生きる人々を鋭い視点で描き出した彼の作品の原点は、自身の壮絶な少年時代にありました。
終戦後、割腹自殺した海軍少尉候補の兄へのコンプレックスと愛とが映画作りの軸になっているとのちに語っています。戦争が彼の作品に通底する「生きることへの執着」というテーマを形成したのです。
帰国後の混乱と映画との出会い

その後森崎を待っていたのは、戦後の混乱と貧困でした。京都大学法学部を卒業後、彼は自分の居場所を探し続けます。そんな中、偶然見た黒澤明の『酔いどれ天使』(1948年)に強い衝撃を受けた森崎は、映画の持つ力に目覚めます。「あの映画を見なければ、私は映画監督になっていなかっただろう」と後に森崎は語っています。
当時の日本映画界は、松竹、東宝、大映などの大手映画会社による黄金期を迎えていましたが、森崎のような無名の若者が足を踏み入れるのは容易ではありませんでした。そこで彼は映画製作の現場を知るため、映画館の雑用係として働き始めます。映写技師の助手として映写室に立ち、様々な日本映画や外国映画を何度も見る中で、森崎は独学で映画の文法を学んでいきました。
松竹での助監督時代

転機が訪れたのは1950年代初頭。森崎は松竹京都撮影所採用試験に合格し、映画界に正式に足を踏み入れます。当時は労働争議の影響で混乱期にありましたが、その状況が皮肉にも森崎のようなアウトサイダーにチャンスをもたらしました。松山善三など後に名監督となる人物たちと共に助監督として働く中で、森崎は映画製作の実践的な技術を着実に吸収していきました。
この時期の森崎は、特に山田洋次や野村芳太郎の下で多くを学びます。先輩たちから、森崎は「映画は単なる娯楽ではなく、社会に問いかける媒体である」という姿勢を受け継ぎました。また、撮影現場での俳優との向き合い方や、限られた予算の中で最大限の効果を引き出す技術など、後の森崎作品の基礎となる多くのことを、彼はこの助監督時代に学んだのです。
独立と監督デビューへの道

1960年代に入ると、日本映画界はテレビの台頭により急速に縮小し始め、森崎は所属する場を失います。しかし彼はこの危機を好機と捉え、その後フリーとして活動を始めます。
その努力が実を結んだのが1969年。森崎は『喜劇女は度胸』で監督デビューを果たします。女性たちの生活を描いたこの作品で、森崎は早くも自身の原点である「社会の底辺に生きる人々」への眼差しを示しました。その後、『男はつらいよ』や『喜劇特出しヒモ天国』などで森崎東という名が映画界に鮮烈な印象を残していくことになります。
戦争、抑留、貧困という苛酷な体験を経て映画界に入った森崎東。その半生は、彼の作品に通底する「生きることの意味」という永遠のテーマそのものでした。苦難の道のりを経て41歳でようやく掴んだ監督デビューは、彼自身の「人間蒸発」とも言える人生を映し出す鏡だったのかもしれません。