
『月は上りぬ』- 田中絹代監督作品の隠れた傑作
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『月は上りぬ』- 田中絹代監督作品の隠れた傑作
日本初の女性監督の挑戦

日本映画史上初の女性監督として名を刻んだ田中絹代(1909-1977)。女優として数々の名作に出演した彼女は、1953年に『恋文』で監督デビューを果たしました。しかし彼女の監督作品の真髄を知るには、2作目である『月は上りぬ』(1955年)に注目する必要があります。デビュー作の成功に続き、さらに自身の映画言語を深化させたこの作品は、残念ながら『恋文』ほど知名度は高くないものの、田中絹代の監督としての才能が最も純粋に表れた傑作といえるでしょう。
時代に先駆けた女性視点

『月は上りぬ』は、江戸時代末期を舞台に、遊女・お蔦(山田五十鈴)と医者・前田伊織(森雅之)の悲恋を描いた作品です。原作は井上靖の同名小説。田中は社会的身分の差により結ばれない男女の物語を、単なる悲恋譚ではなく、封建社会における女性の生き方を問う深い人間ドラマへと昇華させました。
特筆すべきは、遊女という当時最も底辺に置かれた女性の視点から物語を語る斬新さです。当時の日本映画界では男性監督が遊女を描く作品が多数ありましたが、それらが往々にして男性視点からの「見られる対象」として遊女を描いたのに対し、田中は遊女の内面、その尊厳と誇りを丁寧に描き出しました。「女性が女性を撮る」という新しい視点は、この作品の最大の特徴であり、現代の視点から見ても先進的な姿勢といえるでしょう。
繊細な演出と美術の調和

『月は上りぬ』における田中絹代の演出の特徴は、何よりも人物の心理描写の繊細さにあります。主演の山田五十鈴の表情一つ一つに意味を持たせ、言葉にできない感情を視覚的に表現することに成功しています。特に印象的なのは、雪の降る夜に窓から月を見上げるお蔦のシーン。そこには言葉では表せない諦念と希望が交錯する複雑な感情が静かに表現されています。
また、美術や衣装にも田中のこだわりが表れています。江戸時代の遊郭の様子を史実に基づいて丁寧に再現しながらも、過度な装飾を避け、登場人物の心理状態を反映する空間として機能させています。色彩の使い方も象徴的で、お蔦が着る着物の色彩変化は、彼女の心理状態の変化と連動しているのです。これらの視覚表現は、田中が女優時代に溝口健二や小津安二郎から学んだ美学を独自に発展させたものといえるでしょう。
現代に響く普遍的テーマ

『月は上りぬ』が今日なお色褪せない魅力を持つのは、そのテーマの普遍性にあります。社会制度や因習に縛られながらも、自分の心に忠実に生きようとする女性の姿は、時代や文化を超えて共感を呼びます。田中は「女性が自分自身の人生を主体的に生きることの尊さ」というメッセージを、決して説教臭くならないよう、静かに、しかし力強く描き出しました。
田中絹代は生涯で6本の作品を監督しましたが、『月は上りぬ』はその中でも彼女の映画哲学が最も純粋に表現された作品といえるでしょう。女優としての感性と監督としての視点が完璧に調和したこの作品は、単に「日本初の女性監督」という歴史的価値だけでなく、一人の芸術家が到達した美学的高みとして、今なお私たちに多くのことを語りかけてくれます。日本映画史に残る隠れた名作として、ぜひ現代の視点から再評価されるべき珠玉の作品なのです。