
日本映画に革命をもたらした先駆者:五所平之助のトーキー映画『マダムと女房』が開いた新時代
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日本映画に革命をもたらした先駆者:五所平之助のトーキー映画『マダムと女房』が開いた新時代
映画界に鮮烈なデビューを飾った才能

1902年1月24日、東京市神田区鍋町(現・東京都千代田区内神田)に生を受けた五所平之助は、日本映画史に輝かしい足跡を残す巨匠の一人として、今なお多くの映画ファンや研究者から敬愛されている存在である。裕福な乾物問屋の家庭に育った五所は、意外にも若き日には文学青年として俳句に没頭する感性豊かな青年であった。その繊細な感性は後の映画作品にも生かされ、独自の映像美学を築く礎となる。慶應義塾商工学校を卒業後、1923年に松竹蒲田撮影所に助監督として入社し、島津保次郎に師事した五所は、わずか2年後の1925年に自ら原作・脚本も手がけた『南島の春』で監督デビューを果たす。
その後も『からくり娘』(1927年)や『村の花嫁』(1928年)など、都市庶民を題材にした現代劇を次々と発表した五所は、同世代の中でも早くから頭角を現した。師匠の島津保次郎や牛原虚彦らとともに、撮影所長・城戸四郎の下で「蒲田調」と呼ばれる新しい映画スタイルの確立に貢献した五所の初期作品には、後に「五所イズム」と称される独自の作風の萌芽が見られている。初期の代表作『浮草の唄』(英題: Lonely Hoodlum、1927年)は大きな注目を集め、五所の名は映画界で次第に知られるようになっていった。
日本映画史を変えた革新的作品『マダムと女房』

五所平之助の名を映画史に刻んだ最大の功績は、1931年に手がけた日本初の本格的トーキー映画『マダムと女房』であろう。上司からの指名を受けて監督を務めたこの作品は、家族と隣家のジャズ演奏に邪魔されて執筆が進まない劇作家を主人公にしたコメディである。子供の泣き声や時計のアラーム、行商の呼び声、隣家のジャズなど様々な生活音を巧みに取り入れ、当時最新の録音技術を駆使し、複数台のカメラとレンズを用いたテンポの良い編集によって、音と映像が一体となった斬新な喜劇を作り上げた。
この試みは単なる技術的革新にとどまらず、映画表現の可能性を大きく広げるものだった。それまでの無声映画とは異なり、生活音やジャズ演奏を劇中に効果的に取り込むことで、音による笑いの演出という新たな領域を開拓したのである。『マダムと女房』は日本映画における音と笑いの融合という画期的成果を成し遂げ、都会生活者の騒音と静寂を巧みに対比させたコメディとして、観客と批評家の双方から熱烈な支持を集めた。第8回キネマ旬報ベスト・テンでは第1位に選出されるなど高い評価を受け、五所の名声は確固たるものとなった。
この作品の革新性と芸術性は今日でも色あせることなく、2015年にはニューヨーク近代美術館(MoMA)で戦前日本のトーキー黎明期特集にて上映され、2020年には英国映画協会(BFI)が選出した「年別日本映画ベスト」で1931年の代表作に挙げられるなど、国際的にも再評価が進んでいる。日本映画の音声技術の発展に大きく寄与したこの作品は、五所平之助という監督の先見性と創造力を示す記念碑的な一本として、映画史に燦然と輝いている。
多彩な作品世界を生み出した豊かな創造力

五所平之助の作品世界は、『マダムと女房』の成功後さらに深みと広がりを見せていく。1930年代前半は小市民の生活を描く叙情的な人間ドラマで活躍した五所だが、その題材は多岐にわたる。山本有三の戯曲を映画化した『生きとし生けるもの』(1934年)では社会正義を求めて闘う主人公を描き、社会派の意欲作として注目を集めた。また、川端康成の小説を初めて映画化した『恋の花咲く 伊豆の踊子』(1933年)や家庭喜劇『人生のお荷物』(1935年)などの話題作も次々に発表している。
五所の作品は、都会に生きる庶民の日常を細やかに描き出し、ユーモアとペーソス(哀感)を交錯させる作風が特徴だった。「喜びと涙が同時に湧き上がるような何か」とも形容されたその作風は「五所イズム」と称され、過度な感傷に陥らない人間味あふれる温かさで観客の共感を誘った。映像面では、綿密なカッティングとクローズアップを多用したリズミカルな編集術が光る。若い頃にエルンスト・ルビッチの作品に学んだ五所は、場面を細かく分割して組み立てる手法を得意とした。台詞や身振りよりも編集による視線の誘導で詩的な情感を醸し出す演出は、サイレント映画からトーキーへの移行期において独自の洗練を見せている。
五所は松竹時代に田中絹代を主演に迎えた作品を多く手がけ、『村の花嫁』以降、田中は五所作品に20本以上出演し看板女優となった。1936年頃に肺結核を患い療養するも、『新道』(1936年)で復帰。戦前最後の松竹在籍作となった『木石』(1940年)を経て、撮影所長の城戸と対立して松竹を退社し、1942年に新会社の大映へ移籍した。大映での『新雪』が興行的に大成功を収め、戦時下でも健在ぶりを示した五所は、太平洋戦争末期の1945年に召集令状を受けるも、持病のため即日帰郷となり、その直後に終戦を迎えることとなる。
トーキー映画の先駆者として残した豊かな遺産

戦後の五所平之助は、松竹に一度復帰して『伊豆の娘たち』(1945年)を監督した後、東宝に移籍する。しかし1948年に東宝争議が勃発すると、五所は従業員組合側に立って籠城闘争に参加し、その影響で1950年に東宝から契約を解除されてしまう。1951年、同じく東宝を去った映画人たちと共に独立プロダクション「スタジオ・エイト」を結成し、新東宝と提携して作品を製作する五所の戦いは続く。この時期に発表した椎名麟三の小説を原作とした『煙突の見える場所』(1953年)は第3回ベルリン国際映画祭で国際平和賞を受賞し、国際的な評価を得るきっかけとなった。
その後も『愛と死の谷間』(1954年、日活)や『鶏はふたたび鳴く』(1954年、新東宝)、大ヒット作となったメロドラマ『挽歌』(1957年)など意欲的に作品を送り出した五所は、1957年に『黄色いからす』でゴールデングローブ賞外国語映画賞を受賞し、戦後日本映画を代表する監督の一人として国際的にも注目されるようになる。1964年には前年に亡くなった小津安二郎の後任として日本映画監督協会の理事長に就任し、16年間にわたりその要職を務めた。1966年に紫綬褒章、1972年に勲四等旭日小綬章を受章し、映画界への貢献が公式に顕彰された。
劇場用長編映画の最後の作品となった『女と味噌汁』(1968年)以降も、伝統人形劇を題材にした短編映画『明治はるあき』(1968年)や、自身が終の住処とした静岡県三島市の記録映画『わが街三島 1977年の証言』(1977年)を監督するなど創作を続けた五所は、晩年は病床に伏しながらも、松尾芭蕉の『奥の細道』の映画化を終生の夢として構想し続けたという。1981年5月1日、79歳でその生涯を閉じた。
五所平之助は戦前から戦後にかけて約100本の映画を監督し、その多くで庶民の日常生活をユーモラスかつ繊細に描き出した。「泣き笑い」の情感をもつ作品群は当時「五所イズム」とも評され、チャップリンになぞらえられる独自の人道主義的作風を築いた。生涯にわたり人間味あふれるドラマを追求し、日本映画史において小津安二郎や成瀬巳喜男らと並ぶ「庶民劇」の名匠と位置付けられている五所の作品は、チャップリン映画に通じるヒューマニズムと、イタリアのネオレアリスモに先駆けた生活感描写を併せ持つ点で、世界の映画史においてもユニークな存在として評価されている。
日本初のトーキー映画を成功させた五所平之助の功績は、単に技術革新の先駆者としてだけではなく、その革新的な技術を用いて人間の機微を繊細に描き出した芸術家としても、日本映画史に燦然と輝いている。彼が切り拓いた音と映像が融合した新たな表現の可能性は、その後の日本映画に大きな道標となり、『マダムと女房』は今なお日本映画黎明期の記念碑的作品として国際的に再評価されている。技術と芸術の両面において高みを目指し続けた五所平之助の映画人生は、映画という芸術形式の無限の可能性を示す貴重な遺産として、今日も私たちに多くの示唆を与えてくれるのである。