
映像作家への道 ― 瀬々敬久監督の原点と歩み
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映像作家への道 ― 瀬々敬久監督の原点と歩み
大分での幼少期 ― 映像との出会い

1960年、大分県に生まれた瀬々敬久は、幼い頃から映像の魅力に取り憑かれていた。地元の映画館で観た作品の数々が、彼の心に深く刻まれることとなる。特に高校時代には映画部に所属し、8mmカメラを手に初めての自主制作に挑戦。この頃から既に、彼特有の鋭い視点と繊細な感性が芽生えていたという。地方都市での限られた環境ながらも、あらゆる映画を貪欲に吸収し、映像表現の可能性を模索していた瀬々少年の姿がそこにはあった。
京都大学での学びと映像への情熱

大分の地を離れ、京都大学文学部へと進学した瀬々は、より広い視野で芸術や文化を学ぶ機会を得る。大学では文学や哲学を学びながら、同時に自主的な映像制作活動にも精力的に取り組んだ。この時期に制作した短編作品は、その斬新な演出アプローチと独自の美学により、学内外で高い評価を受けることとなる。また、映画研究会での活動を通じて、世界各国の名作と呼ばれる作品に触れ、自身の映像語法を磨いていった。大学時代の交友関係や文学部で培った人文学的素養は、後の彼の映画人生において貴重な糧となっていく。
大学卒業後 ― 映画の道への直接的な一歩

京都大学文学部を卒業後、瀬々は迷うことなく映画の世界へと飛び込んだ。一般企業への就職という安定した道を選ばず、情熱を注いできた映像制作の道を進む決断をした。映画製作の現場で最初から助監督として経験を積み始めた彼は、映画づくりの基礎から実践的なスキルまでを現場で学んでいった。大学で培った文学や哲学の知識は、映画という芸術表現において彼の作品に深みを与える土台となった。映画制作の厳しい現場で揉まれながらも、瀬々は自分の目指す映像表現への思いを決して手放すことはなかった。
助監督時代と映画監督デビューへ

映画の現場に飛び込んだ瀬々は、著名な監督の下で助監督として経験を積み重ねていく。厳しい下積み時代を経験しながらも、その才能と努力は徐々に業界内で認められていった。長年の助監督経験を経て、ついに自身の監督作品で映画界にデビュー。瀬々敬久という名前が映画ファンの間で知られるようになるのは、この頃からである。彼の初期作品から既に垣間見える独自の世界観と演出スタイルは、日本映画界に新たな風を吹き込み、後の作家性豊かな作品群へとつながっていくことになる。瀬々敬久は、紆余曲折を経て、ついに自分の映像言語で物語を紡ぐ映画作家としての第一歩を踏み出したのだった。