
武満徹の映画音楽革命 - 沈黙と音が織りなす映像美学
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戦後復員から始まった音楽の道
武満徹(1930-1996)は、1930年に東京で生まれ、幼少期の一部を旧満州(中国・大連)で過ごした。少年期に終戦を迎え、日本復員後は進駐軍放送などを通じて初めて西洋音楽に触れる。その際に耳にしたシャンソン曲「パルレ・モア・ダムール」に衝撃を受け、「音楽で生きる」決意を固めたと後年語っている。正式な音楽教育は受けず独学だったが、戦後の混乱期にジャズやフランス近代音楽、前衛音楽に傾倒し、作曲家・清瀬保二に師事して作曲技法を学んだ。
1950年代初頭、詩人・瀧口修造らとともに実験工房(Jikken Kōbō)を結成し、音楽・映像・舞踏など分野横断的な実験芸術活動に参加する。この活動を通じ、武満は電子音楽やミュージック・コンクレート(テープ音楽)にも取り組み、1955年には初のテープ作品「静かな造形」を発表した。また同年、ラジオやテレビ番組の音楽制作や映画音楽の仕事にも着手し、最初期の映画音楽として記録映画『北斎』(1952年)の音楽を試作している。
1956年、武満は中平康監督の『狂った果実』で初めて長編劇映画の音楽を正式に担当した。この作品は石原慎太郎の小説をもとに戦後世代の退廃を描いた日活の青春映画であり、日本における「ヌーヴェルヴァーグ」の嚆矢とされている。武満は師である早坂文雄の薫陶も受け、同世代の佐藤勝と共にジャズやエレキギターを取り入れた斬新なスコアを提供した。この映画の成功以降、武満は黒澤明や小林正樹、篠田正浩ら多数の名監督作品で音楽を手掛け、映画音楽家としての地位を確立していく。
「間」を重視した独創的な音楽美学
武満徹の映画音楽は、伝統的なハリウッド的手法とは一線を画し、沈黙(間="ま")と音のバランスを重視した独自のスタイルが特徴である。武満は日本文化に根付く「間」の概念を音楽にも取り入れ、「音と音の間の静寂に意味が宿る」と考えた。彼は「たとえ一音でも映画音楽になり得る」と語っており、むやみに音符を埋め尽くすのではなく、必要最小限の音で最大の効果を生むことを信条としていた。
実際、武満のスコアでは無音の場面や環境音のみの場面が戦略的に配置され、静けさが緊張感を高める演出が随所に見られる。一方で響く音に関しては、東洋と西洋の音楽要素を融合させた多彩な表現を追求した。戦後すぐは「日本的なるもの」を否定して出発した武満だが、やがて能や雅楽など日本伝統芸能の音響にも関心を向け、西洋オーケストラと和楽器・民俗楽器の併用、さらには電子音響まで駆使する独自のサウンドを作り上げた。
例えば『切腹』では琵琶の音色をテープ録音して変調・加工し、不協和音や残響効果として使用している。また『怪談』ではオーケストラの響きに水滴音や風の音など録音素材を重ね合わせ、伝統楽器(琵琶や尺八)の旋律と電子的効果音が交錯する不気味な音空間を生み出した。このような前衛技法と伝統楽器・オーケストラを自在に組み合わせるセンスは、「伝統と革新の融合」と評され、武満の音楽を唯一無二のものとしている。
映像と一体化する音響デザイン
武満の作曲手法はきわめて映像志向的でもあった。通常、映画音楽は映像の完成後に作曲されるが、武満は脚本の段階から作品世界に関与し、監督や脚本家と緊密に意見交換を行っている。親友でもあった勅使河原宏監督は「彼(武満)は単なる作曲家以上の存在だった。脚本・キャスティング・ロケハン・編集・トータルな音響デザインまで、あらゆる面で深く作品に関わってくれた」と述懐している。
このように武満は音楽家でありながら時に監督の視点をも併せ持ち、映像と音の関係を総合的にデザインした。実際『おとし穴』では「音楽監督:武満徹」とクレジットされ、自身以外の作曲家(例えば一柳慧・高橋悠治)も巻き込んで映像に即興的な音付けを行うという前衛的試みも行っている。具体的な音作りの面では、楽器の伝統的な奏法を拡張した実験も特徴である。
『砂の女』では弦楽器にグリッサンド(滑奏)やコル・レーニョ(弓の木部で弦を叩く奏法)を多用し、不協和でざらついたテクスチャを作り出した。さらに楽団員をステージ上に離れて配置する空間音響のアイデアも取り入れ、一種の立体音響的効果で砂丘の静寂や閉塞感を表現している。電子音響(テープ音楽)の導入も武満サウンドの重要な柱であり、環境音やノイズを録音素材としてコラージュするミュージック・コンクレートの手法を映画にも応用し、映像のリアリズムと幻想性を高めた。
日本映画音楽史に刻まれた革新
武満徹の登場は、日本映画音楽の在り方に大きな変革をもたらした。戦前から戦後直後にかけては、早坂文雄や伊福部昭、芥川也寸志といった作曲家が映画音楽を発展させてきたが、武満はその次世代を代表する作曲家として位置付けられる。早坂文雄の薫陶を受けた彼は、師の伝統を受け継ぎつつもさらに前衛的なアプローチを押し広げ、日本映画に現代音楽のエッセンスを持ち込んだ。
結果、1960年代以降の日本映画では、武満の影響を受けた実験的な音使いが増え、映画音楽が単なるBGM(背景音楽)以上に作品の芸術性を左右する要素として認識されるようになった。とりわけ、日本ニューウェーブの映画人たちにとって武満の存在は大きな刺激となり、勅使河原宏や篠田正浩、大島渚らは武満と積極的にコラボレーションし、映像と音の新たな表現領域を切り拓いた。
映画音楽史の観点では、武満徹はしばしば「20世紀で最も成功した日本人作曲家」とも評される。純音楽の分野で国際的に活躍する一方、映画音楽でもこれほど多数の名作に携わった日本人作曲家は稀であり、その功績は特筆に値する。武満の音楽は作品そのものの評価と切り離せない形で語られることが多く、『砂の女』や『怪談』の芸術性、『乱』の迫力は武満の寄与抜きには語れない。映画批評家からも「映画の内容と不可分の音楽を作り得た作曲家」として高く評価されており、欧米の専門誌で「日本映画におけるタケミツ効果」と称されたこともある。武満徹が築いた「沈黙と音」の美学は、現在も多くの映画音楽作家に影響を与え続けているのである。