
若者の絶望と暴力 - 長谷川和彦監督「青春の殺人者」
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70年代日本の闇を映し出す衝撃作

1976年、高度経済成長期の終わりを告げる時代に公開された長谷川和彦監督の「青春の殺人者」。実際に起きた少年による猟奇的殺人事件を下敷きに、社会の歪みと若者の絶望を鮮烈に描き出した作品だ。物語は、母親を強く憎む19歳の少年・健一が、無差別に女性を殺害していくという衝撃的な内容を持つ。タイトルの「青春」と「殺人者」という言葉の組み合わせが示す矛盾は、当時の日本社会が内包していた病理を象徴している。主演の萩原健一の演技は、冷酷さと儚さが同居する複雑な主人公像を見事に表現し、長谷川監督の冷徹な演出と相まって、観る者に強烈な印象を残す。
精緻な心理描写と社会批判

「青春の殺人者」の特筆すべき点は、その精緻な心理描写にある。長谷川監督は犯罪者を一方的に断罪するのではなく、主人公順の内面に深く分け入り、彼の行動の背景にある家庭環境や社会の歪みを克明に描き出す。母親との病的な関係、父親の不在、学校での疎外感といった要素が、彼の人格形成にどのように影響したかが丁寧に描かれる。同時に、彼の犯行を単なる個人の病理として片付けず、その背後にある競争社会、消費主義、伝統的価値観の崩壊など、高度成長期の日本が抱えていた矛盾を鋭く指摘している。この二重の視点が、本作を単なる猟奇的犯罪映画ではなく、深い社会批評として機能させている。
映像表現に見る実験性

物語の進行とともに目を引くのが、長谷川監督の実験的な映像表現だ。健一の錯乱状態を表現するモノクロとカラーの交錯、急激なカットバック、歪んだアングルなど、伝統的な映画文法を逸脱した手法が随所に見られる。特に、殺害シーンにおける赤と黒のコントラスト、フラッシュバックと現実の曖昧な境界線の表現は、観客を主人公の混乱した精神世界へと引きずり込む効果を持つ。また、都市の無機質な風景と自然の対比、消費社会を象徴する看板やネオンの多用など、視覚的メタファーに満ちた画面構成も本作の特徴だ。長谷川監督はこれらの実験的手法を通じて、言葉では表現しきれない若者の疎外感と社会の狂気を視覚的に表現することに成功している。
現代に響く問いかけとその普遍性

「青春の殺人者」のラストシーン、警察に追い詰められた順が自殺を図るシークエンスは、救いのない結末でありながら、観る者に様々な問いを投げかける。犯罪者個人の責任と社会の責任の境界線、人間の暴力性の根源、そして共感と理解の可能性について、答えを提示することなく観客に問いかける開かれた結末となっている。公開から45年以上経った今日でも、若者の犯罪や社会的疎外の問題は解決されていない。むしろ、SNSによる孤立や格差社会の深刻化など、状況はより複雑化している。そのような現代において、本作が投げかける問いは一層の重みを持つ。長谷川和彦監督の「青春の殺人者」は、単に70年代を映し出すタイムカプセルではなく、人間社会の根源的な問題を問いかける普遍的作品として、今なお色褪せぬ輝きを放っている。