2026年6月30日、世界中の多国籍企業の税務部門で、ひとつの締切が静かに過ぎていきました。「第2の柱」と呼ばれるグローバル最低課税制度にもとづく、GloBE情報申告書の初回提出期限です。12月決算の企業にとっては、2024年度分をこの日までに出さなければなりませんでした。
求められたデータ項目は100を超え、その多くは既存の会計システムのどこを探しても存在しない数字でした。子会社ごとの実効税率、管轄区域ごとの調整後所得、各国が独自に立法した細部の差異。担当者たちは、表計算ソフトを開く前に、まず「この数字はどこから持ってくるのか」を突き止めるところから始めなければならなかったのです。
この締切が象徴しているのは、税務会計におけるAIの位置づけが、この2年ほどで決定的に変わったという事実です。かつてAIは、業務を少し速くしてくれる便利な道具でした。
いまは違います。当局が先にAIを実戦投入し、企業と税理士の側がそれに対抗するためにAIを組み込む。そういう構図に変わりました。効率化のための投資ではなく、事業を続けるための防衛設備になったのです。
当局のアルゴリズムが46億ポンドを掘り当てた
その転換点を最もはっきり示したのが、英国の歳入関税庁が運用する「Connect」というシステムです。2010年に導入されたこの分析基盤は、銀行の記録、不動産情報、オンラインマーケットプレイスのデータなど、行政が保有する膨大な第三者情報と申告内容を突き合わせ、人間の目では見つけられない不整合を洗い出します。
法律事務所ピンセント・メイソンズの情報公開請求によって明らかになったところでは、Connectを起点とした調査は2024/25年度に46億ポンドの追加税収をもたらしました。それまでの年平均が34億ポンド前後でしたから、35%ほどの跳ね上がりです。
もちろん、システムが自動的に調査を開始するわけではありません。最終判断は人間の調査官が下しています。しかし、調査官の前に「疑わしい500件」を並べてみせるのがアルゴリズムであるなら、実質的な選別はすでに機械が行っているとも言えます。同じ方向の動きは英国に限りません。
OECDが2025年11月にまとめた税務行政に関する報告書では、58の法域を対象とした調査のなかで、AIの活用がここ数年で急速に広がった技術として特筆されています。コンプライアンス管理、納税者のリスク評価、行政上の意思決定支援。
かつては「将来の話」だった領域が、すでに日常の運用に入り込んでいます。ギリシャの電子帳簿プラットフォームや、オーストラリア税務局のデータマッチングも同じ系譜にあります。
この環境で、目視と手作業だけで申告書を仕上げている事務所がどうなるかは、想像に難くありません。当局が数百万のデータポイントから瞬時に異常値を拾えるのであれば、税理士の側も提出する前に同等の目でクライアントのデータを見ておく必要があります。
AIの導入は、競争優位の源泉というより、負けないための最低条件になりました。
「第2の柱」という怪物と、2026年1月の急旋回
そこへ覆いかぶさってきたのが、冒頭に触れた「第2の柱」です。OECD・G20の包摂的枠組みのもとで合意されたこの制度は、連結売上高が7億5,000万ユーロ以上の多国籍企業に対し、事業を行う各管轄区域で最低15%の税負担を求めるものです。
ある国の実効税率が15%を下回れば、まずその国の適格国内最低課税(QDMTT)が上乗せ税を徴収し、それがなければ親会社の国が所得合算ルール(IIR)で拾い、それも働かなければ軽課税所得ルール(UTPR)が最後に回収する。滝のように連なる判定を、国ごとに、企業ごとに走らせなければなりません。
しかも、この制度は動いている最中に大きく形を変えました。2025年6月のG7声明を経て、2026年1月5日、OECDは「サイド・バイ・サイド」と呼ばれるパッケージを公表します。米国に親会社を置く多国籍企業は、一定の要件のもとでIIRとUTPRの適用を実質的に免れるという内容で、2026年1月1日以後に開始する事業年度から選択できます。
現時点で適格とされているのは米国のみです。ただし各国のQDMTTはそのまま残るため、「もう関係ない」とはなりません。あわせて、恒久的な簡易実効税率セーフハーバーが導入され、移行期の国別報告書セーフハーバーも1年延長されました。ルールを追いかけていた企業ほど、追いかけ直す羽目になったわけです。
こうした複雑さは、もはや人間の処理能力の外側にあります。だからこそ先進的な税務ファームは、「第2の柱エンジン」とでも呼ぶべき専用のAI基盤を構築してきました。各国子会社のばらばらなERPデータを、GloBEが要求する標準形式へ自動的に対応づける。140を超える法域で個別に立法された条文のばらつきを読み分け、OECDのモデルルールとの差異を洗い出す。
申告書と現地のQDMTT規定のあいだに生じる報告上の食い違いを検知し、最終的に指定のXML形式で出力する。開示文書の初稿を生成AIに書かせる。どれも、AIなしでは規模と速度が保てない作業ばかりです。
ビッグ4が築いた「基幹インフラ」
大手会計ネットワークは、この局面に自社専用のAI基盤で応じています。なかでも踏み込みが深いのがPwCで、法務・税務特化のAIを開発するHarveyおよびOpenAIと組み、「Tax AI Assistant」を展開しています。
汎用の既製モデルをそのまま使うのではなく、判例、法令、そして自社の知的財産を含む600万件超の税務情報源を参照できるよう仕立てた専用のアシスタントです。最大1万件の文書やデータポイントを取り込んで分析でき、25を超える国・地域別のモデルを用意して、現地法に即した回答を返せるようにしています。英国では2,300名の税務プロフェッショナル全員に配られました。
この能力が最も効くのがM&Aの実務です。PwCのディールズ部門が手がける法的実体の最適化では、法定帳簿、公的記録、ERPからの出力といった、かつては担当者がチェックリストで一件ずつ潰していた雑多なデータをHarveyがまとめて読み込み、統合や簡素化の方向性を取引の初期段階で提示します。
労働集約的だった工程が縮み、結論の一貫性が上がりました。興味深いのは、PwCがこれを「ライセンス」「導入」「定着」という三段階の枠組みで扱っている点です。ソフトウェアを配って終わりにせず、人がAIの出力を前提に働き方を変えるところまでを設計に含めています。
EYはAIを既存のグローバル基盤と統合し、16万件を超える監査業務を支える新たな機能を打ち出しました。デロイトは監査プラットフォームの内側に生成AIとエージェント機能を実装し、監査調書の一次レビューをAIに任せて修正案を出させています。
社内向けには「PairD」という独自のコパイロットを配布しました。KPMGは「Trusted AI」の枠組みのもとで、法改正の追跡や必要書類の自動生成に重点を置いています。
同社が2026年3月に実施した財務部門への調査では、AIを実際に活用している組織の割合が75%に達し、2024年の30%から大きく伸びました。ただし、投資が期待を「上回った」と答えた組織は23%にとどまります。導入は広がったが、成果を刈り取れているのは一部。そこが現在地です。
中小事務所で起きている、静かな再設計
巨額の投資ができない中小規模の事務所にとっての主戦場は、SaaSとして提供される特化型ツールです。トムソン・ロイターが2025年に公表した調査では、税務・会計事務所のうち生成AIをすでに使っていると答えたのは21%でした。前年の8%から3倍近い伸びです。導入を計画または検討している事務所が53%あり、「予定なし」は25%まで落ちました。前年は49%でしたから、1年で半減した計算になります。同社の2026年版ではさらに進み、生成AIを組織として使っている専門職は40%、導入予定なしは19%まで下がっています。
用途として上位に来るのは、税務リサーチ、申告書の作成、税務アドバイザリーの三つです。CoCounsel Tax、Blue J、Bloomberg Tax AI Assistantといった専用ツールは、汎用チャットボットのように文章を生成するのではなく、検索拡張生成(RAG)の仕組みで信頼できる税務ライブラリや一次法令から該当箇所を引き、引用元を添えて答えを返します。行き止まりの少ないリサーチができるようになり、パートナーのレビュー負担が目に見えて軽くなりました。
そして、効率化の副産物としてもうひとつ、見過ごせない変化が起きています。スタンフォード大学の研究チームが277名の会計士と79の中小事務所を対象に行った調査によれば、生成AIを使う事務所では財務報告の粒度が12%上昇していました。人手で記帳していた時代は、処理コストの都合で支出を「給与」「経費」といった大づかみな区分にまとめがちでした。
ところがAIは処理の限界費用がほぼゼロですから、追加の手間をかけずに賞与、福利厚生、接待交際費といった細かい区分へ自動的に分解していきます。品質を犠牲にして量を稼ぐ、という予想された取引は起きませんでした。むしろ解像度が上がり、分析にも監査にも耐えるデータが手元に残るようになったのです。
日本の解法(1)──守秘義務を、運用ではなく構造で守る
日本市場は、少し違う進化を見せています。税理士という独占業務資格に紐づく法的責任が、AIの設計思想そのものを規定しているからです。税理士法第38条が課す守秘義務は重く、職員が顧問先の元帳をうっかり公開型のチャットボットに貼り付けた瞬間に、事務所の存立が揺らぎます。「ルールで縛る」だけでは足りない、という危機感がここにあります。
その回答として提示されたのが、TKCが2026年5月に発表したAIエージェントです。中小企業向けの会計システムに組み込む「FXエージェント」と、会計事務所向けの業務管理システムに組み込む「OMSエージェント」の二つで、7月にプロトタイプを公開し、9月末から順次提供が始まる予定です。
特徴は、独立したサービスとして外側に足すのではなく、既存システムの内部に埋め込んだ点にあります。同社はこれを「Governance by Design」と呼んでいます。顧問先のデータがTKCの管理環境の外へ出る経路が、設計上そもそも存在しない。
運用ルールや人間の注意力ではなく、製品の構造そのものが守秘義務を担保する、という考え方です。基盤にはMicrosoft Foundryを採用し、外部のAIサービスから接続するためのMCPサーバーは提供しないと明言しています。
もうひとつ徹底されているのが「Human in the Loop」です。OMSエージェントは巡回監査で確認すべき仕訳を抽出し、月次試算表の異常値を検知し、顧問先からの問い合わせに回答案を書きます。
しかし、税務・会計上の最終判断を下すことも、申告書を承認することもありません。仕訳の生成でも、過去に税理士が正確性を確認したパターンだけを参照し、不確かな推論を避ける設計になっています。責任を負うのは、あくまで人間の税理士です。
日本の解法(2)──AIどうしに議論させる
もうひとつの方向から攻めているのが、大阪のスタートアップSynergyAIが2026年5月1日に提供を始めた「ZeiPilot」です。一般的なAIツールは、ひとつの問いにひとつのモデルがひとつの答えを返す、いわばシングルエージェントとして動きます。しかし税務判断のように多角的なリスク評価が要る領域では、単一の視点はハルシネーションの温床になりかねません。
ZeiPilotは、国際税務、M&A、相続・事業承継、暗号資産、不動産、判例・裁決リサーチ、税務調査対応、不正仕訳検出といった領域に特化した22名のAIエージェントを備え、案件ごとにチームを編成します。
エージェントたちはラウンド制で議論を交わし、互いに違う角度からリスクを指摘し合います。大規模な税理士法人で行われている、パートナー同士のレビュー会議のような過程を、AIの空間内で再現しようという発想です。
申告書ドラフトの記載漏れや矛盾を複数の目で洗い出す機能、インボイスや契約書を点検する書類レビュー、ベンフォード分析なども備え、これまで数時間を要していた判例・通達のリサーチを最大80%削減できるとしています。
こうした特化型サービスの登場は、業界の空気が変わったことの反映でもあります。国はすでに、2025年6月に公布されたAI法にもとづき、同年12月23日に初の人工知能基本計画を閣議決定しました。国税庁は「書かない確定申告」を掲げてデジタル化を進めています。
現場では、会計業界に特化した生成AIの実践コミュニティが設立から1年あまりで1,000事務所を超える規模に育ちました。関心の段階は、とうに過ぎています。
記録者から、触媒へ
以上を並べてみると、ひとつの筋が通ります。ビッグ4が独自にファインチューニングしたモデルでM&Aの構造を解析し、中小事務所がRAGベースのリサーチツールで調べ物の底を上げ、「第2の柱」の怪物にはAIエンジンで立ち向かい、日本では守秘義務を製品構造で守るエージェントと、AIどうしに議論させる仕組みが生まれている。
手法はばらばらでも、目的は同じです。当局のAIが精度を上げ続けるなかで、提出する前にリスクを潰し切ること。そして、そこで浮いた時間を、機械には出せない判断に振り向けること。
真の意味でAIを使いこなしている税理士とは、便利な道具を手に入れた人ではありません。AIが出してくる高解像度の材料を前提にして、自らの提供価値を「過去の記録者」から「未来の触媒」へと定義し直した専門家のことです。仕組みを組み替え、人をその新しい流れに配置し直せた事務所だけが、次の時代のプロフェッショナルサービスを名乗ることになるのでしょう。



